よりよい未来の話をしよう

連載「わたしと選挙」を考える - 第2回 コムアイ (アーティスト)-選挙も音楽も、ユートピアもディストピアも。すべて同じ“世界”だ。

私たちは、「政治」や「選挙」とどう接点を持ち、そしてどう関係し合っていけるのだろうか。2022年夏に参議院議員通常選挙を控え、あしたメディアでは「わたしと選挙」をテーマに連載を掲載する。あなたと政治との関わり、あなたと社会との関わりのヒントになると嬉しい。第2回は、アーティスト コムアイさんに思いを寄せてもらった。

選挙について書くのは荷が重いけれど、今までずっと気になってきたことを言葉にするいい機会かと思う。音楽などの表現に向き合う時の自分と、社会が直面している課題について議論する時の自分には、自分でも驚くくらいの感覚の差があり、いつか言葉にしたいと思ってきた。どちらも素直な自分なのだけれど、大きな橋を渡りながらその2つの感覚を行き来しているような感触があり、その2つがほとんど矛盾しているようにも感じたり、いやこれは同じことを違う方法でやっているだけなんだな、という気になったりもする。

この“橋”が、私個人の中でいったいどのようなものなのか考えてみることが、言葉になり、オンラインで記事になり、読んでくださるあなたの目や耳を通して、もしかすると他の場所にある“橋”を観察することにつながるかもしれない。ということに興味がある。
この世の中には二重性が、いや、2つどころか数え切れないくらいたくさんの考え方の違いがあり、それらは当然のごとく矛盾している。この世を構成する1人の人間は、世の中を映す“小さな世の中だ”と思っている。小さな世の中の矛盾を見つめることで、私が理解できていない大きな世の中の不思議を解く手がかりにしたい。

私自身がつまづいているところの入り口までご案内するので、その先で一緒に迷ってもらえたり、ヒントをもらえたりしたら、とても心強いです。

まず、選挙について。
選挙は、民主主義のもとに暮らしていることを確認するための儀式かな、と思うことがある。
投票に行き、政党や候補者の名前を書き、インターネットやテレビなどで開票結果を見て、喜んだり落胆したりする。私は大抵がっかりして絶望に近い気持ちを味わい、友人と慰めあったりして、今までに「自分の1票が政治を変えた」と興奮した体験はないかもしれない。
けれど、開票のたびに感じることがある。
画面の開票結果に並んだ、それぞれ中途半端な数字たちのどれか1つには、自分の投じた1票がちゃんと数えられているということ。例えば、私の投票した候補者が獲得した票数が52,106票だったとしたら、52,105枚の投票用紙の束が山になっていて、その上に私が鉛筆で書きこんだ投票用紙が1枚ひらひらと重なる様子が思い浮かぶ。(投票用紙に使われているユポ紙の原材料にプラスチックが使用されているのは微妙だけれど、あの鉛筆のすべすべした書き心地はたまらない…!)ちゃんと証拠をこの目で見たわけではないので、開票に不正や数え漏れがないとは言い切れないけれど「私の1票が反映されていない!」と憤ったこともなくて、ただその画面に現れた数字の中に「自分の1」を想像し、自分の小さな分身のように思い、じっと見つめる。自分が持っている票が、多くも少なくもないただ1票として、選挙の結果に影響がある、ような、ないような…ものであることを確認する。こういう仕組みで民意が政治に反映されるようになっていて、それに自分も参加したんだなあ、ということを行為を通して確認する。

私にとって選挙は、自分の1票を政治に反映させるという実質的な行為そのものよりも、投票所に行き、箱に紙を入れ、開票を見つめる一連の投票行為を通して、自分が見せられている景色から受け取る意味合いが大きいと感じている。儀式や演劇のように「選挙」があり、参加した人間は、その舞台のオーディエンスでもある。自分はこの共同体の一員として意見を問われる存在なんだ、ということを、投票のたびに実感するのだ。そんな基本的なことはとっくに頭でわかってるよ、と言われるかもしれないが、この一連のプロセスに関わることで体感し、人間の無意識に影響する点が“儀式みたいだ”と感じた理由だと思う。国政と地方自治では状況が違うけれど、日本で生まれ育ち、日本の文化の中で育ったとしても、参政権が認められていない方もいらっしゃる。一票を投じる権利がなくては、どうして共同体の一員として認められていると感じることができるだろうか。

今投票権があったとしてもそれがどれくらい確かなものなのかという疑問もある。ミャンマーやベラルーシの政変をニュースで見て、当たり前に機能すると思っている選挙制度も、人々が必死に勝ち得てきたものなんだな、と思い知った。何かのきっかけであっけなく崩れ去ってしまうような、繊細で脆いものなんだろうとも思う。だからこそ、儀式に参加して民主主義を目撃したい。

前回の衆院選の時には、SNS上でのキャンペーンがより活発になってきたと感じた。一例として紹介させていただくと、私も一部に参加させてもらった投票に行こうという呼びかけが、大きな広がりを見せた。14人の役者やモデル、ミュージシャンなど表現を生業にしている人たちが投票を呼びかけている映像で、制作陣の努力のおかげで、それぞれのプラットフォームで数十万回は再生された。それによって前回の衆院選の若者の投票率はめちゃくちゃ伸びた!…という結果を期待していたけれど、全然そんなことはなかった。
これはショックだったけれど、ということはつまり、これらのキャンペーンがなかったら、投票率はもっと低く、もしかすると過去最低だった可能性すらある。

ところで、「投票に行こう」や「投票したよ!」はだいぶ言いやすくなったけれど、政党の名前を口にするのは、なぜいまだにこんなにもハードルが高いのだろう。ちょうど少し前にアメリカの大統領選があったが、同じSNSでも国が違うだけでこんなにも選挙に関わるムーブメントに違いが出るものか、と驚いた。日本も二党制だったら状況は違うものだろうか。皆さんはどうかわからないけれど、私はパブリックな場所(オンラインでもオフラインでも)では政党の名前はどうも口にしにくいと感じている。前回の衆院選では、候補者の発言を比較したポストをシェアするくらいしかできなくて、「はっきり言わなくてもどこの党に投票するか明らかですよね?(笑)」と思いながら発信していた。ちなみに3年前は、「期日前投票しました!」という投稿の写真に党名を書いたけれど、文字の色を背景とほとんど同じ色にしてよほど注意深くない限りは読めないようにした。伝えたいんだか伝えたくないんだか、意味不明な行動だった。

私の認識が合っていれば、この国では選挙の際に、主権者それぞれが忙しい仕事の合間にいつの間にか各政党の候補者について勉強していて、どこに票を投じるかという意志は胸の内に秘め投票に行く、というのが常識になっているようだ。この違和感は、テストの日の朝に、いつも遊んでいるように見えた友達がいつの間にかばっちり勉強していたことが分かった時のなんともいえない気持ちに似ている。

本当は、投票をすること以上に、政党や候補者について議論が活発になることが、選挙の醍醐味なのではないか。たまにやってくる選挙期間くらいは、候補者の討論番組が盛り上がったり、SNSで党名が飛び交ったりして、どこに投票したらいいのか、全員で混乱して、議論して、その期間の最後の最後に投票があるべきじゃないか。

全員でと書いたけれど、全員が政治について考えるなんて無理だろうとも思っている。なんなら、人間の8割くらいがボーッと趣味や恋愛のことだけ考えられたらいいのになあと思う。でも8割がボーッとしていたら、政治が腐敗したり暴走したりして、結局困るのは私たちだ。
だから私は、ノンポリ(=政治に興味がない)(※1)はダサいと思う。結局、社会で生きていない人はいなくて、政治と関わらないことは不可能だ。空気、食べ物、水、自分の人権、他人の人権、全てに関わるのが政治だから、政治に興味持ちたくありませんっていうのは、全てがどうなろうとどうでもいいですって言ってるように聞こえる。

ここで言うノンポリは、熟考した結果どこの政党も応援したくないっていうのとは全然違うし、学生運動の頃のノンポリとも使われる意味合いが変わってきていると思う。私が違和感を覚えるのは、政治の話になった途端「こちらはノンポリ貫いてますんで、そこんとこよろしく!!」というテンションで、なんならプライドを持ってノンポリを自称している姿。企業がノンポリを貫いていることを言い訳にして戦争反対やジェンダーギャップのムーブメントに無関心な素振りをする時も、そんなにノンポリって万能な呪文なのか?と疑問に思う。だからといって、じゃあ慌てて推す政党を決めよう!っていう危ういことを勧めたいのではもちろんない。ただ、一緒に迷いたい。ああでもない、こうでもない、をみんなで一緒にやりたい。そのことに選挙の価値を感じている。選挙の結果は数字でしか見えなくても、何が争点になったのかは文字でオンライン上に残り、その後の政治に反映される可能性がある。これからの選挙は、政党名が出てより市民の議論が活発になってほしいし、そうなるために私も微力ながら動きたい。

動きたい。のだが、素直に打ち明けると参院選の公示日はインドにいる可能性が高くて、その時期に自分が国内の政治に興味を持てているのか、正直言ってあまり自信がない。

インドには古典音楽を習いに行っているのだが、その渦の中に潜っている間は、なんだか外の世界のことがどんどん遠ざかって、日本で普段考えている、前半で書いたようなことのリアリティが薄くなっていく。

Ryo Mitamura

先生の美しい歌を聴いて、真似て、繰り返して、そうしていると、もっと上手くなりたい、この音の調和の中にずっといたい、という気持ちで日常が満たされていく。(そんな澄んだ気持ちだけではなくて、お昼にどこのカレーが食べたい、とか新しいサリーがほしいとかばかり考えている気もするけれど)

初めての渡印で泊まったAirbnbのホストのインド人のおじさんに「そうか、歌を歌うのか。歌は光の模様だからね」とさらっと言われて、インドってすごいところだな、と呆然としたことがあった。数百年、いや数千年にわたって受け継がれ、生み出されつづけてきた光の模様が目の前で描かれているのを聴いていると、悠久の時を感じる。うまく言えないけれど、底なし沼のような安心に包まれる。古典音楽とはそういうものなのだろうか。日本の雅楽の演奏を聞いた時も、目を瞑ると薄紫の雲がたなびいて、体の重力がなくなるようで、これはどこでも天国にしてしまう音楽だ…と思った。いや、きっと、ユートピアをつくりだすのは、音楽のジャンルに拠らないだろう。音楽を演奏する人たちは、演奏しているとき、それがユートピアであれディストピアであれ(理想の)世界を率先して作り出していて、そこに聴く人を連れていくようだ。意見の対立は存在せず、議論の必要もなく、またたく間に世界が作られ、共有される。美しい音を聴かせてもらう瞬間は、地球上のすべてが核戦争で破壊されてしまってもなお、この音は響き続けるんじゃないかと思ったりする。

この地点から政治のことを考えようとすると、えっとー、参院選、なんだっけ、あ、選挙ね。というくらい、考える気持ちが遠のいてしまう。どうでもよくなってしまう。
そうして、あれだけノンポリを軽蔑しておきながら、誰よりもノンポリな自分自身に気がつく。

TOKI

政治で変えられる現実世界と、音による想像世界を一緒にするのはめちゃくちゃすぎると思うかもしれないけれど、私にとって世界は世界だ。どちらもリアリティを感じる。だからこそ人間は表現に癒されたり腹が立ったりするのだろう。

ある視点では、政治も音楽も、より美しい世界に存在するためにどういう方法をとるかだけの違いで、世界を構築するという同じ行為なんだ!と思うし、別の視点では、政治と音楽の目指すところは全く矛盾しているようにも思う。政治は悪いところを見つけて変えていくが、音楽は、直接的にそういうことはしないような気がする。個人的には音楽の、この世とあの世のすべてを肯定するような性質に惹かれている。そう言うと、後者の方が本質的なように思うかもしれないが、私はどちらも手放したくない。どちらも自分にとっては本質的な人類の智慧のように思う。けれどやっぱり、そんなつもりはないのに、どちらかに身をおいていたら、意図せずもう一方の世界がどうでもよくなってしまう。ライブやトークなどで同じ日に2つの感覚を行き来する時、私は、完全にポリティカルな自分と、完全にノンポリティカルな自分の間に掛かった大きな橋を、ぼうっとしながら渡ることしかできない。どちらにいても、自分は自分に嘘をついていないかと、疑いたい気分になる。みんなは、社会は、星の数ほどある違う考え方や感覚に日々さらされながら、どうやってそれらの矛盾に向き合っているのだろう。不思議でしょうがない。

※1 nonpolitical(ノンポリティカル)の略で、政治運動に関心がないこと、または関心がない人を指す。

 

▼プロフィール画像

コムアイ
声や身体表現を主とするアーティスト。日本の郷土芸能や北インドの古典音楽に影響を受けている。主な作品にオオルタイチと屋久島からインスピレーションを得て制作された『YAKUSHIMATREASURE』や、奈良県明日香村の石舞台古墳でのパフォーマンス『石室古墳に巣ごもる夢』、東京都現代美術館でのクリスチャン・マークレーのグラフィック・スコア『No!』のソロパフォーマンスなど。水にまつわる課題を学び広告する部活動『HYPE FREE WATER』をビジュアルアーティストの村田実莉と立ち上げる。NHK『雨の日』、Netflix『Followers』などに出演し、俳優としても活動する。音楽ユニット・水曜日のカンパネラの初代ボーカル。


(注)
本コラムに記載された見解は各ライターの見解であり、BIGLOBEまたはその関連会社、「あしたメディア」の見解ではありません。


寄稿:コムアイ
編集:おのれい
写真:Ryo Mitamura、TOKIほか