「“さん”と呼びましょう」への違和感
今年の春から、大学で映画を教え始めた。これまでも単発のゲスト講師として大学で授業をしたことはあったものの、通年でひとクラスを受け持つのは初めてのことで、暖かくなり始める前から既に緊張していた。
おそらくいまの若い世代にとって、映画は決して身近な映像ではない。映画の通常料金はいまや2,000円にも達し、かたやYouTubeやTikTokはたいてい無料かつボタンひとつで再生できる。最初の授業でアンケートを取ってみたところ、日常的に映画を観る人はクラスの大多数を占めていたが、映画館で観る人となるとほんの数人のみであった。
そうした状況を鑑みて、授業の基本的な目標を、映画を観ることそのものに慣れてもらうこととした。まずは、映画の内容に関わりそうなジェンダーやセクシュアリティの基本用語について説明してゆく。
授業が一通り終わったところで、1人の学生が来て、大学に貼られたあるポスターについての疑問を話し始めた。
その学生によると、構内に「“くん”でも“ちゃん”でもなく “さん”と呼びましょう」と太文字で書かれたポスターが掲示されており、なぜかモヤモヤを感じるのだと。それから対話を重ねながら、少しずつどうして違和感を抱くのかを言語化していった。
もしかしたら正確に捉えられていないのかもしれないが、要は大学という権威が学生同士の関係間における名前の呼び方にまで踏み込んでくることへの違和感のようだった。生活を送る場所のあちらこちらに「〜ましょう」と呼びかけるポスターが飾ってあるのだから、それが「正しいこと」「実践しなければならないこと」として、学生がある種のプレッシャーを覚えるのも無理はない。教員向けに配られるガイドブックにも、学生に対しては「さん」で呼ぶよう注意書きがされているが、大学が教員に対して学生との接し方を指南するのならまだ解しやすい。
わたしが問題だと感じたのは、そのポスターにはほとんど「“くん”でも“ちゃん”でもなく “さん”と呼びましょう」としか記されておらず、なぜそうした方が良いのかという説明が一切ないところだった。
例えば、仕事場なら上司が部下を「ちゃん」づけで呼ぶとハラスメントにあたる可能性もあるだろうが、大学のダイバーシティ推進室が作成したポスターであれば、ジェンダーに関する配慮と考えた方が自然だろう。
疑いを持ち、思索する感性は尊い
トランスジェンダーに対する差別の一形態として知られる「ミスジェンダリング」は、本人のジェンダーとは異なるジェンダーで扱ってしまうことを指す。ミスジェンダリングにはさまざまなケースがあるが、もちろんそこには女性に「彼」(あるいは男性に「彼女」)を使ってしまうといった、代名詞や敬称の問題も含まれる。ミスジェンダリングは個人を不当に扱い、尊厳を傷つける重大な行為である。
学生が人権にまつわる基本的な知識を学び、他者が本人に確認せず勝手にジェンダーを決めつけてしまうことの危うさについて身をもって理解し、その上でジェンダーを特定しないニュートラルな呼称である「さん」を主体的に選ぶのと、大学と学生という権力勾配のある関係において大学側がなんの説明もなくただひと言「そうしましょう」と呼びかけるのとではまったく話が違ってくる。
いずれにせよ、それがたった1枚のポスターであっても大人から言われたことに疑いを持ち、そこで思索できるその学生の感性は尊いものだった。
「当たり前」を揺るがした中学時代の教師
それから数日後、該当のポスターが講師控え室でも掲示されていることにふと気づいた。実際に見てみると、虹のイラストとともに「くん」は青文字、「ちゃん」は赤文字で印字されている。それを見た瞬間、朧げな記憶がどこからか蘇ってきた。
中学時代、かなり変わった国語の教師がいた。その教師は言葉数が少なく、作文させるときにいつも「最初の一文がつまらなかったら、それ以上はもう読みません」と忠告するのが怖かった。
ある日、その教師が生徒たちの作文を前の方で集めるために2つの箱を用意した。教師が「自分の性別の方の箱に入れてください」と指示したその箱には、トイレでよく見かけるピクトグラムが書かれていた。片方がスカートを履いている人、もう片方がズボンを履いている人。ただし、通常であればスカートを履いている人が赤、ズボンを履いている人が青であるはずが、その箱にはそれぞれスカートを履いている人が青、ズボンを履いている人が赤で記されている。生徒たちは見慣れない色とイラストの組み合わせに戸惑い、結局プリントは男子と女子でぐちゃぐちゃになった。
いま冷静に考えてみれば、一般的にスカートは女性しか履かないとされているので、青の人の箱には女子生徒、赤の人の箱には男子生徒のように、ある程度綺麗に分かれても良さそうなものだが、てんでバラバラになってしまったプリントは、「当たり前」が揺るがされて動揺した生徒たちの心理状態を形象化しているようだった。
真っピンクのムートンブーツ
北海道の田舎であったにもかかわらず、当時わたしの通っていた中学校では制服に性別の縛りがなかった。スカートとズボン、どちらを選んでも自由だと明文化されていた。とはいえ実際にスカートを選んだ男子生徒はおらず、ズボンを選んだ女子学生はおよそ1学年に200人ほどいてわずか3,4人に過ぎなかった。校則も一切なく、学校はあくまでも自分の頭で考えることを生徒たちに日々説いていた。
冬になると雪が降るため、ほぼ全員がムートンブーツを履いて学校に通う。冬の間は靴置き場の棚の上に、おびただしい数のムートンブーツが並ぶ。校則で決められているわけでもないのに、なぜか色は全員が無地のベージュだった。
わたしはそれをひどく気持ち悪く感じ、あえて真っピンクのムートンブーツを履いて通った。だだっ広い靴置き場に何十、何百と規則正しく並ぶベージュのムートンブーツのなか、たった1つだけピンクのムートンブーツが目立った。むろん学校側からはなんのお咎めもなかったにもかかわらず、なぜかそれを理由にいじめに遭ったりした。
知らない同級生たちから毎日のように「うえーい!ピンクマンだー!ピンクマンピンクマン!」などと揶揄われたが、謎の全体主義に巻き込まれてベージュマン軍に与するくらいなら、陽気なピンクマンで孤軍奮闘している方がずっとマシだった。
規則がないと豪語している学校にあって、生徒たちが自ずと空気を読んで画一化されていく現象にわたしはつねに憤っていた。だから、わたしたちの常識を打ち壊しにきたその国語教師のことは、いまでも鮮烈に記憶している。
色とりどりの世界に
男女で色分けされたピクトグラムについてインターネットで少し調べてみると、2018年に放送されたNHKの『チコちゃんに叱られる!』という番組で1964年の東京オリンピックで初めて採用されたものだと専門家が語っていたらしい。もはや人間を赤と青のいずれかで色分けするなんてノンバイナリー(※1)の存在も想定しておらず時代錯誤でしかないが、いまだに日常生活の中でもしばしば遭遇してしまう。
例えば、近所にあるチェーン店の少し古めの銭湯に行くと、必ず赤か青の岩盤浴着を渡される。館内を観察すると、男性に見える入場者は青を、女性に見える入場者は赤を着ていることがすぐ分かる。銭湯の店員が受付の時点でレジに男性か女性かを登録し、その情報に基づいたバンドを渡すようだ。訪れた人それぞれにジェンダーを確認しているわけではなく、店員が見た目の印象で瞬時に判別しているに過ぎない。わたしの同行者はある日には赤を渡され、また別の日には青を渡された。そうした割り振りの間違いは、きっと頻繁に起きているに違いない。
母はあるとき「男性が女性に間違えられるのはまだいいかもしれないけれど、女性が男性に間違えられたら絶対に傷つくよね」と口にした。その発言の細かい是非については一旦置いとくとしても、とりあえず性別を誤るということが誰かを傷つけてしまいかねないことだということは一般的にも共通の理解があるように思う。
それならば、なぜしばしばエラーを起こすシステムをなお維持し続けているのだろう?
この小さな銭湯は、つまりわたしたちの生きる社会の縮図のようなものだろう。入場時に男か女かの2種類のどちらかをぱっと見で割り振られ、それに従って赤と青の世界で生きていかなければならない。
一方、たまに行く新しめの入浴施設では、受付で岩盤浴着を自ら選ぶ。しかもそこでは赤と青の2色からの選択ではなく、派手な花柄の岩盤浴着やロゴ入りの岩盤浴着など複数用意された色とりどりの柄から1種類を選ぶシステムを取っている。赤と青の人しかいない銭湯よりも、わたしはそこの入浴施設の方を居心地よく感じる。2色しかないなかで勝手に決められるより、色とりどりの中から自分で選んだ方がずっと理想的ではないか。
編注※1 用語:「ノンバイナリー」とは、自分のジェンダーアイデンティティや表現したい性が男性・女性という性別のどちらにも当てはまらないという考えを指す。
▼ジェンダーを指す言葉の1つ、「ノンバイナリー」について解説した記事はこちら
ジェンダーについて考え始めたきっかけ
わたし自身の人生でジェンダーという概念に思考の翼が生えたのは、小学校低学年の頃だった。
1人で髪を切りに、家のそばの美容室に行ったときのことであった。美少女戦士セーラームーンのセーラーマーキュリーに憧れていたわたしは、オシャレでふわふわのショートカットを期待していた。しかし終わった後に鏡に写っていたのは、あまりにも短すぎるスポーツ刈りの自分の姿だった。どうやら美容師さんは、わたしのことを男の子扱いしているようだった。
想像と違う髪型にされてしまったのがショックだったのか、男の子扱いされてしまったのがショックだったのかは定かでないが、しばらくはどこに行っても男の子として間違われるという時期を経験したわたしは、その後も本来とは異なるジェンダーで扱われることについて幼い頭で思案していた。
小学校のちょうど折り返し地点に、家の都合で転校することになった。転校前は髪も短く、男の子たちと公園で走り回り、外で遊べない日は家でテレビゲームをして周りの子たちを打ち負かしまくっていた。
しかし、転校後は髪が長くなり、学校では一言も話せないくらい内気な性格に豹変して人生は一変した。
自分がどんなジェンダー表現をするのか、そして周囲にどう扱われるのか、それは生活を大きく変えることなのだと深く心に刻まれたのだった。
特にクィアやフェミニズムを扱う映画に対しての感想やレビューを辿っていると、しばしば「性別は関係ない」といった紋切り型の文言に出くわす。しかしながら実態は、この社会で「性別は関係ない」状況なんてほとんどないのではないかと思う。
わたしたちは社会生活を送る中で誰かと出会う度に、まず無意識的にジェンダーを判断している。個人を認識する上でジェンダーに関する情報を一切合切廃することなど、現状はほぼ不可能だと言ってもいい。
キャラクターのジェンダー表象
2024年の夏に公開された『インサイド・ヘッド2』は興行収入が史上最速で10億ドルを突破したアニメーション映画となり、ピクサーの中でも最大のヒットとなった。
『インサイド・ヘッド』は、主人公ライリーと頭の中にいる感情たちを巡る物語を描く。「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」といった感情を擬人化されたキャラクターたちは、公式の情報でも「ヨロコビ」と「カナシミ」と「ムカムカ」には女性表象を、「イカリ」と「ビビリ」には男性表象が割り振られている。
そうと知らずとも、「ヨロコビ」は鮮やかな色のワンピースを纏っており、「ムカムカ」はボブカットに長い睫毛、「イカリ」はネクタイを締めたスーツ姿をしているので、それぞれを女性と男性として認識する観客は多いだろう。
女性はたえず穏やかに微笑んでいることを強要されながら、一方で率直に怒りを発露することを抑圧されていることを思えば、「ヨロコビ」が女性表象、「イカリ」が男性表象になっているのは古典的なジェンダーバイアスとも言えるかもしれない。さらに言うなら、「子宮」を語源とした女性差別的な言葉である「ヒステリー」のイメージと結びつきやすい「ムカムカ」もやはり女性である。
この世界の中では、現実には「性別」のない「感情」までもがジェンダー化されている。そうすることによってキャラクターたちの「人間らしさ」が増すようでもあり、擬人化の信憑性を帯びさせる効果もあるのかもしれない。
それと似たような詐術を拵えた映画が『燃ゆる女の肖像』で画家を演じたノエミ・メルランが主演したフランス映画『恋する遊園地』だった。この映画は対物性愛をテーマにしている。主人公のジャンヌが恋した遊園地のアトラクションは機械であり、本来であれば性別など無いはずである。しかし映画の中でそのアトラクションは、異性愛規範のもと「男性」として扱われているように見え、最終的には「夫」の役割さえ担わされてゆく。
わたしたちの生きる社会
わたしたちが生きるこの社会では隅々まで男女二元論を基盤としたジェンダー振り分けシステムが張り巡らされている。
だから、「性別は関係ない」といった素朴な美辞麗句で終わらせず、性別がいかに関係しているかを徹底的に見つめ、その事実を認めた上で学び考え続けていくこと、このシステムからわたしたち1人ひとりが自由になるためには、その道しかないのだと思う。
「まったく、めんどくさい男なんだから!」。パソコンに向かってこの文章を書いていたら、どこからか母の声が聞こえてきた。茶トラの飼い猫がなかなかご飯を食べてくれないらしい。感情や遊園地のアトラクションと違って確かに猫には雌雄があるが、普段わたしは性別をそこまで意識して猫と接していない。ただそこにいるだけで愛らしく尊い猫にも「めんどくさい男」の称号をあてがうなんて、この問題はやはり根が深い。
©︎ポニーキャニオン映画部
児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
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寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝