よりよい未来の話をしよう

大島育宙|『宮藤官九郎論』(前半)「クドカンと長瀬智也と阿部サダヲ」

金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』(2024年1月期TBS系・毎週金曜よる10時)が面白い。1986年から2024年に事故的にタイムスリップしてきたダメ親父・小川市郎(阿部サダヲ)が昭和の価値観を振り回しながら令和の価値観と衝突していくドラマだ。「せっかく人権が尊重されるようになった令和を『息苦しい』と揶揄する昭和礼賛ドラマだ」という批判も見かけるが、私にはそうは思えない。宮藤官九郎という脚本家が、自身のキャリアを賭けて首を洗って差し出しているような作品ではないか。6話まで放送された時点でドラマ全体の真価は見えないが、少なくとも今言える宮藤官九郎論をまとめていく。

「大人しくない」純子が指摘する令和の課題

6話で池田成志扮する「エモケン」という脚本家が登場する。1963年7月19日生まれで年は違えど宮藤と同じ誕生日、さらには構成作家出身という出自まで同じだ。代表作は『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系、2000年)ならぬ「SSLP」こと「新橋SLパーク」。劇中では「どっかの駅前にカラーギャングが群れるやつ」と雑に紹介される架空のドラマだ。そして「当たり障りねー!」という決め台詞は主人公・マコト(長瀬智也)が連呼する「めんどくせー!」に違いない。

しかし、エモケンはキャリアの初期の作品が宮藤にそっくりなだけで、本人のキャラは似ても似つかない。これは宮藤が怯える「ありえたもう1人の自分の姿、つまりメタバースにいるクドカン」だ。

池田成志演じる・エモケン ©TBS

クドカンへの執着が先走ってしまった。6話の大事件はエモケンの登場ではない。市郎の娘・純子(河合優実)がグッと前に出てきたことだ。市郎と純子は似た者親子でありながら、実は対照的だ。市郎は令和に過剰適応する。どこの世界に転生してもそれなりに個性を発揮しながら仕事もできてしまう人だ。今回もテレビ初出演の素人とは思えない活躍をしてバラエティ番組の構造にしっくり収まっていて滑稽だ。そういう意味では、一見乱暴者の市郎は社会においては実は、おとなしい。

対して、純子はそうはならなかった。未来に期待したものの「こんなもんかよ」と、表面上の優しさだけが先行して、笑いの構造として弱いものいじめが横行する歪みが許せない。これなら皮も中身もいじめ気質な昭和の方が清々しかった、という感覚はややわかる。表面は優しいふりして結局長い物、古い物に阿(おもね)るエンタメの方が陰湿で有害だ、という違和感だ。純子が振り回す正義感や違和感は、市郎の極端に主観的で自己中心的なそれとは違い、俯瞰的だ。

純子は昭和では「アバズレ」と呼ばれる。女子にしか使われない、ジェンダーバイアスが直接響く蔑称だ。性別ごとに配られた「かくあるべし」という基準が、強い男に都合の良いものだった証拠だ。貞淑(ていしゅく)とは対極の性分な自由奔放に生きる純子。生活に追われ、おとなしい、おしとやかな女の子らしさに収まる余裕がなかった純子は、社会が若い女子に求める規範から逸脱した「アバズレ」となる。

そんな彼女が令和にタイムスリップすると、鋭い角度で違和感を指摘できる存在になる。市郎が1〜4話で指摘してきた令和の社会への違和感とは大きく異なる。純子の方が一段と鋭いし、二項対立の片翼を担当したわけではない。市郎の投げ込む極論は結果的に令和社会の「それっぽい」前進に寄与するのに対し、純子が指摘する「潜在的ないじめマインド」という課題は、突然変異的に名企画が降ってこない限り、解消されないまま蟠(わだかま)る。市郎より純子の方が「大人しくない」のだ。

河合優実演じる・小川純子 ©TBS

「クドカンドラマ」ミューズ・森下愛子の変遷

「アバズレ」よりももっと直接的に酷い言葉でイジられていたのが『木更津キャッツアイ』(TBS系、2002年)のモー子(酒井若菜)だ。性経験が多い女性を指す、ここに書きたくないような言葉で彼女は呼ばれる。木更津という郊外でローカルに閉じて生きる不良たちの終わりなき日常を描いた大傑作に、当時の口語表現のリアリティは必須の要素だったし、今タイムスリップして宮藤官九郎にクリーンな脚本を書き直して欲しいなどとは全く思わない。しかし、事実として、モー子はホモソーシャルから都合よく排除されながら性的な対象としてだけ消費される女子キャラクターだった。モー子が実は処女だと明かされるのも、東京を忌避する地元愛の象徴なのも、とにかくローカルな男子に都合が良い。

2000年代前半の宮藤官九郎作品にはホモソーシャルへの没頭が顕著に見られるし、それが魅力そのものだ。男子キャラクターの葛藤に比べると女子キャラクターはおバカで可愛い小道具として配置されることがあまりに多かった。社会の主流やエリートではない、カウンターの男子のダサさとかっこよさを描くための踏み台として、ミソジニーがあったことは明確だろう。そんなことは宮藤官九郎という作家自身も百も承知で、15年くらいかけて、自分の皮膚を爪を立てて引っ掻き素手でひん剥くような、血の滲む脱皮に繰り返し挑戦している。

宮藤官九郎の挑戦はクドカンドラマのミューズの1人、森下愛子の変遷を見ると明快だ。『木更津キャッツアイ』では主人公・ぶっさん(岡田准一)の義母を演じた。木更津に根付いたストリッパーとして、主人公たちにとって「性に目覚める前からそこにいる性的な大人」である。

『池袋ウエストゲートパーク』ではマコトの実母として登場する。ねずみ講に騙されるなど明確に軽率で、容姿も可愛くて性的にも奔放だ。スペシャルドラマで父の存在が判明するが、ドラマ本編では父は不在で、相互依存的な母子関係だ。

そんな森下が『ごめんね青春!』(TBS系、2014年)でおバカさを取り外し、母性のみの存在となる。観音菩薩像に宿り、ドラマの語り手となっているのもわかりやすく象徴的だ。主人公・平助(錦戸亮)の亡母として、肉体を失い、精神だけの存在として俯瞰する。母性を神格化する、究極の客体化と解釈できる。

『監獄のお姫さま』(TBS系、2017年)では他の女性俳優陣と並んで主演グループの1人に躍り出る。仏像で語り手、という人間離れした存在から、突然肉体を持つ人間、しかも主体になる。「おばちゃんたちにも色々あるんだ」という緻密さで、木更津やIWGPのホモソーシャルと同じやり方で、換骨奪胎(かんこつだったい)したシスターフッドが描かれる。

©TBS

長瀬智也と自身のホモソーシャルへの鎮魂歌『俺の家の話』

宮藤官九郎の自己解体と前進の歴史は、主体のレパートリーを増やすプロセスだった。背景の書き割りとしてうまく愛くるしく使わせてもらってきた女子キャラたちの内側に入り込んで物語を紡げるかどうか、という挑戦。閉鎖的でマッチョなホモソを魅力的に陶酔的にダサかっこよく描いてきたあまりに、後回しにしてきた犠牲だ。

『うぬぼれ刑事』(TBS系、2010年)でホモソの悦楽は臨界点に達した。モラトリアムではない、社会に責任を持って参加している大人の男たちが夜な夜な集まり、恋愛至上主義的な価値観で「外にいる女神」としてのゲストヒロインに刹那的に恋していく。ゲストヒロインは1話ごとに入れ替わってしまうので、憧れの存在としての他者なまま毎話が終わっていた。その限界への荒療治が『ごめんね青春!』だった。男子校と女子校が統合されるというわかりやすい設定。閉鎖的なホモソが中心の話ではなく、ホモソはあくまでドラマ世界の半分以下。女子校社会と衝突して「女子だって人間だ!」という当たり前の事実を勉強する長すぎたホモソの卒業物語だ。

そして2021年の『俺の家の話』(TBS系)に至る。クドカンドラマの絶対的マッチョ支柱として君臨してきた長瀬智也の引退作だ。『うぬぼれ刑事』で限界を迎えたホモソドラマ文化からの脱皮を十年間準備してきた宮藤官九郎が、長瀬智也の身体と共に、自身の物語の男性的筋肉を葬送する離れ業だった。

長瀬智也は宮藤官九郎のパワードスーツだったように思えてならない。マッチョで美しく、不器用でも男仲間から無条件に愛されるオトコ、漢。その鎧を卒業するタイミングが長瀬の引退とピッタリ重なったのは偶然だし、長瀬の引退がなければホモソから降りて老いていく長瀬を描く名作を何度も産んでくれたに違いない。が、『俺の家の話』はマッチョな分身への渾身の鎮魂歌だった。「落語」と「ヤクザ」という二つの伝統を往還する『タイガー&ドラゴン』(TBS系、2005年)に構造は類似するが、「能」と「プロレス」という肉体性の芸能に置き換わったのも、身体性への強固な意識を感じる。まだまだ男子中心に継承されている伝統芸能であることも重要だ。ヒロインは後妻業疑惑の女・さくら(戸田恵梨香)だ。彼女はホモソや伝統家系にむしろ都合の悪い異物として複層的に描かれる。

「クドカン脚本」もう1人の体現者・阿部サダヲ

長瀬智也のドラマ身体を見送った後に残ったのが、クドカン脚本を体現してきたもう1人の男性俳優・阿部サダヲだ。宮藤官九郎との代表作は映画に多いが、これも「ドラマは長瀬智也、映画は阿部サダヲ」というなんとなくの棲み分けになっていた。長瀬がかっこいいホモソ男のパワードスーツなら、阿部は面白おかしい男の着ぐるみだ。俳優としても舞台や映像に出続ける宮藤官九郎本人が扮するより、長瀬が演じた方がかっこいいオトコになったように、阿部が演じた方がわかりやすく哀愁漂うコミカルなオトコになる。

男性性の情けなさ、みっともなさを体現する阿部サダヲには『木更津キャッツアイ』では有害な小物役が割り当てられた。阿部サダヲの出演作を振り返ると『舞妓Haaaan!!!』(2007年)、『なくもんか』(2009年)、『謝罪の王様』(2013年)で小物男が大暴れするコメディのイメージを確立。ふざけたイメージをフリにして『死刑にいたる病』(2022年)、『空白を満たしなさい』(2022年)などの闇の演技も増加傾向だが、転換点は宮藤官九郎脚本の大河ドラマ『いだてん』(NHK、2019年)だろう。宮藤は「いつ呼ばれるかと楽しみにしてたら終わった」と阿部がぼやいたように、朝ドラの『あまちゃん』(NHK、2013年)の世界には阿部を迎えなかった。朝ドラで肩を温めた阿部サダヲは、宮藤官九郎の大河ドラマ戦で主役になった。情けない男のパブリックイメージを大きく振りかぶって、戦後復興と東京オリンピックという国民的物語を背負った。

阿部サダヲ演じる主人公・小川市郎 ©TBS

かくして「愚直な国民的一般市民」となった阿部サダヲが昭和男の有害性を背負うのが『不適切にもほどがある!』だ。1話の時点では『木更津キャッツアイ』の猫田とそっくりな小物に見えた。野球部の監督という設定まで同じなのだから、意図的だろう。そんな男の内側には妻や娘への愛が常に燃え盛っていることがわかる心憎い展開が続いた。22年後に猫田の内面が掘り下げられるとはどんな『木更津』フリークも予想できなかったはずだ。

世界が善くなるために「話し合いましょう」というドラマ

エモケンという脚本家はクドカンより少しだけ前に売れた設定のようだ。一発当ててその余力で今まで走り切ってきたようだが、宮藤官九郎のような企画力も時代の空気を読み取る力も涵養(かんよう)できなかった半生だと推測できる。やはり、クドカンが恐れるもう1人の自分の姿に見えてならない。長瀬智也と阿部サダヲに出逢えなかった悪夢ルートの宮藤官九郎。大人計画のようなライフワークを積み上げる場を持てなかった宮藤官九郎。磯山晶や金子文紀という優秀なスタッフチームと組めなかった宮藤官九郎。あらゆる出逢いを統合して絶え間なく作品として吐き出し、新陳代謝する機会を持たなかったらどうなっていたか、という妄想のクドカンの化身かもしれない。

『不適切にもほどがある!』が退色しつつある古き悪しき有害な価値観を復権する意図のドラマでないことは明白だ。阿部サダヲ演じる市郎はとにかく終始「ヤバい奴」として描かれる。ヤバい奴が暴論を撒き散らしていたら令和のスタンダードとクラッシュして奇妙な議論が発生する、という構造のフィクショナルなコメディだ。令和には令和の歪(いびつ)さがあり、その歪みにたまたま市郎の暴言が嵌(は)まることがあるだけだ。建築の素人が工事中の家の中に侵入して壁にボールをぶつけて遊んでいたら、たまたまボールが当たってできた穴をきっかけに、手抜きのまま進んでいた工事の欠陥が明らかになる、みたいな話の回が多い。

「他人の性的自由を自分の娘を基準に考える」と歌う回が賛否両論を巻き起こしたが、それはあくまでドラマ内で一部の人たちが内面化した一案であり、ドラマがメッセージとして発信しているガイドラインと読むべきではない、と6話時点では私は考える。

©TBS

ドラマ後半に入って、やはり純子の姿勢が太い補助線になった。世界は善くなるように見えるけど、そう簡単には善くならない。表面から改善していくことも大事だけど、それで根深い加害の構造が隠される怖さもある。そんな指摘自体は現代の価値観の更新への逆張りでも揶揄でもなく、真っ当な危機意識だ。

吉田羊演じる社会学者が取り乱し、絶対に許されない偏見を青少年にぶつけるシーンも物議を醸したが、彼女は自分の息子と夫の恋愛関係を母として、妻として、止めないと気が済まない特殊な感情が爆発して、持てる語彙を総動員して全力で暴言を吐いたのであり、彼女自身の考えでもなければドラマのメッセージでもない。

こうした個々人のキャラクターの奇抜さとドラマの価値観は切り離して見るように気をつけなければフィクションを正当に評価できない。

市郎が初対面で渚(仲里依紗)のビールを勝手に飲むくだりは「昭和のおじさんは他人のビールを勝手に飲んでいた」という表現ではない。「時代の感覚と関係ない個人の性格としても、市郎は多分に傍若無人で自他の境界を安易に踏み越える異質な人間だ」というキャラクター表現だ。

©TBS

このドラマは令和の価値観だけを揶揄するものでもなければ、ましてや昭和の価値観の復古の旗を振るドラマでもない。今が本当に最高か?世界は本当に善くなるのか?そう簡単には善くならないけど、じゃあどうする?そんな問いを「話し合いましょう」というドラマだ。

そのために私たちは、クドカンがエモケンにならなかったように、エモケンにならないためにトライアンドエラーを繰り返してきたように、それでもエモケンになる恐怖と懺悔を差し出しているように、他者との話し合いの回路を開いて話し合いの打席に立ち、自己懐疑を持ち続けなければならない。そう思わせてくれるドラマだ。『不適切にもほどがある!』を最後まで見届けることで、平成を駆け抜けた作家の懺悔と現在地が見えるだろう。

※記事公開後、一部表現を変更しました(2024/3/12 18:55更新)

 

▼『宮藤官九郎論』後半はこちら

 

金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』TBS系毎週金曜よる10時放送
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大島育宙(おおしま・やすおき)
1992年生。東京大学法学部卒業。テレビ、ラジオ、YouTube、Podcastでエンタメ時評を展開する。2017年、お笑いコンビ「XXCLUB(チョメチョメクラブ)」でデビュー。文化放送「おいでよ!クリエイティ部」、フジテレビ「週刊フジテレビ批評」にコメンテーターとしてレギュラー出演中。Eテレ「太田光のつぶやき英語」では毎週映画監督などへの英語インタビューを担当。「5時に夢中!」「バラいろダンディ」他にコメンテーターとして不定期出演。

 

寄稿:大島育宙
編集:吉岡葵
写真提供:©TBS