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つやちゃんコラム|星野源、cero…2015年の“YELLOW革命”から読み解く、いまポップミュージックが「面白い」理由

いま国内のポップミュージックが「面白い」と評されるのはなぜか?

国内の音楽が面白い――多くのリスナー、ジャーナリスト、メディア関係者が口を揃えてそう話すようになってからしばらく経つ。

個人的な肌感覚では、2018~2019年頃にさまざまなジャンルで現れた特段ユニークな試み――折坂悠太『平成』(18)、中村佳穂『AINOU』(18)、長谷川白紙『エアにに』(19)、三浦大知『球体』(18)など――によって徐々にミュージシャン同士が作品を通して創発し合う空気が生まれ、2020年以降になるとそれらエッジィな作品を前提としながら、数多くの若手音楽家が個々のアイデンティティを軽やかなポップさとともに発散させていったことで、徐々に国内音楽シーンに対する多彩な可能性についてのコンセンサスが形成されていったように思う。

結果、たとえばミュージック・マガジン(ミュージック・マガジン社)は2020年9月号で<日本音楽の新世代>という特集を組み「バンドやシンガー・ソングライターからヒップホップやエレクトロニック・ミュージックまで様々なジャンルで確かな実力を持った若手ミュージシャンが次々に登場し」ている状況を踏まえ、長谷川白紙を筆頭に11の日本の音楽シーンを紹介。また、国内の新進気鋭のミュージシャンが発表した優れたアルバムを称える「APPLE VINEGAR -Music Award-」では、主催者の後藤正文が2022年の選考会で、「ここ何年かは日本の音楽の方がはっきり面白いと感じる作品が多いし、バラエティに富んでいて、形に捉われない人がたくさんいる」と述べている。(※1)

本論の目的はナショナリズムの称揚にはないし、そもそも音楽について国内ー海外という二項の図式で語ること自体が非常にナンセンスになりつつあることを認識しつつも、今多くの人が作品における劇的な変化を感じ取っているのは確かなようだ。

そしてその傾向は、海外において日本の音楽の存在感が高まりつつある状況とも連動を見せている。グローバル・チャートにおける脱ー英米中心主義が加速する中で、藤井風やYOASOBI、新しい学校のリーダーズ、XGといった面々の楽曲がみるみる視聴回数を伸ばしているが、むしろそれはほんのひと握りであり、後景には星の数ほどの優れた作品がユニークネスを備えながら意気揚々と鳴り響いている。一体、何がゆえにこのような事態になったのだろう。

※1 「APPLE VINEGAR -Music Award-」
http://www.applevinegarmusicaward.com/j002/index02.html

近年の国内ミュージシャンたちは黒人音楽を再解釈し、日本固有の音楽を創り出している

今の国内音楽シーンの活況、それらを生み出している充実したクオリティの導火線となった事象を通時的に解き明かすとしたら、果たしてどのような仮説を立てることができるのだろうか。

まず、近年の国内の音楽が持つユニークネス、あるいは“面白い”といった形容が具体的に何を指しているのかを明確にしておきたい。

先のミュージックマガジン<日本音楽の新世代>特集ではあまりに広範なジャンル/シーンが対象となっているため共通項を見出すことは容易ではないが、半ば強引に総括してしまうならば、大きくは

1.「ボカロミュージックやVTube音楽に共通のインターネット的テクスチャ」

2.「DAW等を駆使したDIYな音楽制作に宿る固着のパーソナリティ」

3.「ジャズやヒップホップ、R&Bといった黒人音楽のグルーヴ解釈」

という点にまとめられる。これらは、1人の音楽家の中に併存・混在するケースも多い。あるいは、一聴すると<3>に分類されそうなラップミュージックのアーティストが実はそれをルーツとしておらず、ほとんど<1>と<2>によって楽曲を作り上げているといったケースも珍しくない。事態は我々が思っている以上に捻じれており、複雑だ。

他方で、国内のミュージシャンらが依拠する音楽的語彙というのはむろんそれだけに限ることはなく、そもそも長年根づいてきた日本的歌謡曲のフィーリングや、いわゆる邦楽ロックと呼ばれるバンドサウンドの影響も依然として強固である。それら歌謡曲や邦楽ロックの伝統を基盤としながら、先述した<1>~<3>の新たな影響を存分に吸収していくことで生まれているのが近年の国内音楽の“面白さ”である――ひとまずはそのように説明することができるだろう。

すると次なる疑問としては、“ユニークで面白い”国内音楽に顕著な<1>~<3>のような影響を、なぜ近年の音楽家たち各々は咀嚼し固有の表現としてアウトプットできているのか?という点が沸いてくる。ここで極めて重要な意味を持っているのが、<3>「ジャズやヒップホップ、R&Bといった黒人音楽のグルーヴ解釈」ではないか。

なぜなら、<1>のボカロミュージック~VTube音楽や<2>のDAW等を駆使したDIY音楽は、時代の経過とともに出現してきた(制作)環境である一方で、<3>の黒人音楽のグルーヴ解釈とは今に始まった新奇なテーマではないからだ。

もちろんそこには、DTM環境やサンプルパック、タイプビート文化が隆盛する中で既存の黒人音楽のグルーヴを1つひとつのビート単位で借用していくことが可能になった近年ならではの背景もあるに違いないが、とは言えジャズもヒップホップもR&Bも長い過去を有しており、以前から少なからず国内音楽にも取り入れられてきた歴史がある。それが突如として、たとえば藤井風にしろ、King Gnuにしろ、Official髭男dismにしろ、米津玄師にしろ、明らかに2000年代までとは違う巧みな咀嚼力が見えるのはなぜなのだろうか。この世代にとって、いかなる出来事があったというのだろう。

いわゆるポップミュージックのジャーナリズム~評論における定説に照らして説明すると、ここではフランク・オーシャンを中心としたオルタナティブR&Bの新たな波や、“ロバート・グラスパー以降”と呼ばれるクロスオーバー的なジャズ、『ブラック・メサイア』でのディアンジェロの復活、さらにはケンドリック・ラマーからミーゴスに至るまでのヒップホップの覇権といった、2010年前半~半ばに勃興したアメリカにおける黒人音楽の潮流をその影響源と捉える視点が定石だろう。

事実、そういったグローバルでの動向が背景にあるのは間違いない。だがこれも、日本の音楽が海外のサウンド傾向をリアルタイムで輸入し表現に落とし込むという手法は今に始まった試みではないし、ここで問うているのは、黒人音楽のグルーヴを吸収するという発見それ自体の姿勢ではなく、いかにして巧みに吸収しオリジナリティを付与したうえで日本固有の音楽として世に生み出せているのかという、方法論についてである。

文字量も限られているなかで一定の結論を導き出すために、冒頭で現在の活況のはじまりを2018~2019年と置いたように、百花繚乱とも言うべき巧みな黒人音楽の咀嚼力についてさらなる源流へとさかのぼる形で探していきたい。そうした際に、時間軸の遡行の旅は、2015~2016年に突如現れた多数の意欲的な作品に行き当たるだろう。つまりは、2015年のcero『Obscure Ride』、星野源『YELLOW DANCER』、Suchmos『THE BAY』、関口シンゴ『Brilliant』、そしてKOHH『DIRT』といったタイトル群である。

2016年も同様の流れは続いており、WONK『Sphere』にyahyel『Fresh and Blood』、Kan Sano『k is s』、Daiki Tsuneta Millennium Parade『http://』、さらには宇多田ヒカル『Fantôme』といった、明らかにそれ以前の国内ポップミュージックにはなかったグルーヴやビート感を見つけ出すことができる。とりわけジャズ周辺の動きは活発で、石若駿やmabanua、横山和明といった新世代ドラマーが中心となってシーンを牽引しはじめたのもこの頃。それら動きの象徴とも言えるイベント・JAZZ SUMMIT TOKYOが開始されたのもまさしく2015年であり、当時を1つの起点として捉えてみることで、この後の時代をうまく見通せるような感覚がある。

星野源、ceroが2015年のアルバムで巻き起こした “YELLOW革命”。両者の思いとは

さて、仮にそうだったとして、いま列挙した音楽家たちはいかにして先述したような新たな方法論を体得していったのだろうか。ここでは、以前から活動をしていたものの2015年の新たな一手によって当時シーンに大きなインパクトを与え、今でも決定的な影響源として語られることの多いcero『Obscure Ride』と星野源『YELLOW DANCER』に焦点を絞り分析していきたい。そもそもこの2作は両者のディスコグラフィにおいて明らかな転換点であり、黒人音楽の吸収に大きく舵を切った記念碑的な作品という共通項を持つ。なぜ、両者は方向転換したのだろうか。ceroと星野源は、2015年の発表時に次のように語っている。

cero(髙城晶平):~特に日本のヒップホップには、他ジャンルに対してある意味排他的なところが少なからずあると思うんです。だからこそ、生半可な気持ちでヒップホップに参入してしまうことは絶対にできない……。そこをどうリスペクトした上で、上澄みを舐めるだけじゃなく、真に迫るにはどうしたらいいか……。そこらへんはすごく気を遣ったところではありますね。
やっぱり音楽が持つ思想って無視できないじゃないですか。レゲエだったらラスタファリとか、アフロ・ミュージックだったらエチオピアに帰ろう、みたいな思想とか。でも、そういうのを抜きにして、音楽として向き合って、抽出して、自分たちの音楽に入れていく…… みたいなところ。そこが今回のアルバムで1番意識したところでしたね。ま、人によっては「それこそが上澄みを舐めてるってことだよ」って言うかもしれないですけど、でも、それを今やる必要が日本の音楽にはある、と思ったんですよ。そんなことをやってる人ってあんまりいないから。

(※2)

(歌詞で“レプリカ”と歌っていることへの真意はどこにあるか、というインタビュアー・岡村詩野からの問いかけに対して)

cero(髙城昌平) : でも、そう名乗ることで荷が軽くなってるなってところもあって。心置きなく突っ込んでいける、だってレプリカだもん! って言っちゃえるっていうか。いろんな重石をはずしてくれる言葉だなって思うんですよ。

(※2)

星野源:~ブラックミュージックっていうものを追求していくと、ブラックミュージックっぽいものにしかならない。俺がやりたいことはなんだろうっていうことにハッと気づくというか、「ぽさ」の追求に飽きてる自分がそこにいて。その時に、やっぱり日本人としての音楽をやるしかないんだって思ったんですよね。

(※3)

ここには、日本の音楽家が長年苛まれてきた黒人音楽の解釈に伴う責任感に対して、ある種の開き直りとも言うべき決心が垣間見える。特にルーツ重視のイデオロギーが根強いヒップホップに対して慎重に言及するceroの発言には重みを感じずにはいられないが、そのように「一旦思想から離れる」ことによって、両者は音そのものへとストイックに向き合うスタンスを獲得していく。

cero(荒内佑) : J・ディラのトラックをパソコンに入れて、グリッドごとに線を引いて波形でどう揺れているのかを研究したりはしましたね。譜面にするとこういう感じになるのかな? っていうようなことをちゃんと理解するってことなんですけど。

cero(髙城昌平) : ちゃんと裏をとる作業だよね。

cero(髙城昌平) :~R&Bとかソウルとかのグルーヴとか揺れって曖昧なものという感じがあったじゃないですか。「やっぱ黒人のグルーヴってすごいね!」みたいな(笑)。でも、それじゃだめだと。ちゃんと解析していかないとって荒内くんはそういう意識があったってことなんじゃないかな。人によっては、アンタッチャブルっていうか、「そんなことすんな!」って怒ることなのかもしれないですけど、でも、魔法じゃなくひとつの科学なんだってことを理解しないと。

(※2)

星野源:~あまり意味があるものよりは、音に合うというか、歌詞としての筋は通しつつも、“歌っていて口の形が気持ち良い”とか、“ここでサ行が出てくると気持ち良い”というようなことを考えながら言葉を選んでいきました。なので、前のアルバムとは詞の質量が違うというか。音に関しては、とにかくバスドラとスネアの音にこだわる感じでしたね。

(※4)

印象から理論へ。あるいは、意味から音そのものへ――。両者の発言から、両作ともに冷徹なまでの客観性を重視していることが分かる。しかも、打ち込みではなく生演奏によって作り上げている点についても共通しており、あえて自分たちの想像の範疇を越えた表現を希求しているのも興味深い。

ceroは当作においては楽理(がくり)肌のドラマーである光永渉の存在が大きかったと語っているが(※2)、星野源も本アルバムでエンジニアに渡辺省二郎を招き、とにかくドラムの音に対する執着を打ち出す方向へと向かった。空間系のエフェクトを避け、音数を少なく絞ったドライなサウンドの鍵を握っているのは間違いなくドラムである。これらは、ドラマーであるロバート・グラスパーに端を発した先述の動向に目を凝らしていたからこそのアプローチに違いない。

また、目指す楽曲の展開についても、ceroは「平熱であげていく」、星野源は「ステイしているのに盛り上がっていく」というほとんど同じ狙いを掲げていたことも重要だろう。星野源『YELLOW DANCER』に加え、ceroの『Obscure Ride』の先行曲のタイトルが「Yellow Magus」であったというのは非常に示唆的なシンクロニシティだが、YELLOWと意識的に名乗ることで黒人音楽に対する距離感を強引に解放させたこと、さらにその大胆さとは裏腹にサウンド創造にクールに向き合ったこと、両者のそういった挑戦こそが突破口となり、今に至るまでの日本のポップミュージックの地平を切り拓いてきたと言えるはずだ。

『Obscure Ride』と『YELLOW DANCER』に宿る反J-POP的とも言える楽曲展開やサウンドメイキング、対して前者に漂う都市・東京のフィーリングや後者にへばりつく歌謡曲のテイストが同居するさまは、極めてアンビバレンツなものに見える。だからこそ、現在の活況のシーンに次から次へと出現する、カオティックかつポップな音を鳴らす若手音楽家の歪な作品に触れると、2015年~2016年に突如生まれた異質な作品群が想起されるのだ。

※2 「2015年、ceroの新作を聴かなきゃなにを聴く? 岡村詩野が切り込む『Obscure Ride』インタヴュー&配信」(OTOTOY)
https://ototoy.jp/feature/2015052700/1

※3 ROCKIN'ON JAPAN 2015年12月号
※4 サウンド&レコーディング・マガジン 2016年3月号

すべての音楽は先人が積み上げてきた歴史の上に成り立ち、脈々とつながっている

あの共時性を“YELLOW革命”とでも呼ぶとして、2020年代から通時的に繋がる線を引くとしたら、恐らくそれらが突然変異ではなかったことも証明されるに違いない。つまり、さかのぼれば、それは以前の細野晴臣や小沢健二が挑んだ試みでもあったはずだ。ceroが重みをもって言及したヒップホップに限って言うと、日本語ラップにハスラーの概念を持ち込んだSCARSやゲットーを歌ったANARCHY、さらには“本場”に対する新鮮な距離感をもって颯爽と出現したSIMI LABの面々という成果があったからこそ、日本で黒人音楽を実践する重みをひらりと交わすかのような“YELLOW革命”が実現できたとも捉えられる。

先人たちが積み上げてきた歴史のうえに現在のような“面白い”挑戦が次々と生まれている状況下で、若手音楽家に交じって、ceroは最新作『e o』(23)で黒人音楽やジャンルのラベリングから解き放たれたようないきいきとしたスタイルを打ち立て、星野源は『LIGHTHOUSE』(23)で一回性の実験というスリルに傾倒している。

先に挙げた2015年~2016年組では、石若駿を中心としたシーンは下の世代にも確かな影響を与えグローバルでも求心力を持つ勢力になりつつあるし、宇多田ヒカルも国内シーンとは距離を置いたイギリスの地で、黒人音楽の吸収という過程を経た上での新たなアプローチへと駒を進めている。今それぞれが散り散りとなって没頭している新たな“面白い”音楽を聴く度に、『Obscure Ride』の猥雑なグルーヴと『YELLOW DANCER』のドライなサウンド感を、そこにある確かなジャズやヒップホップの遺伝子を感じ、胸が熱くなるのだ。

あらゆる音楽は、つながっている。先人から今の音楽家へと、それぞれの時代特有の葛藤とともに、音楽は継承されている。

 

つやちゃん
文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿。メディアでの企画プロデュースやアーティストのコンセプトメイキングなども多数。著書に、女性ラッパーの功績に光をあてた書籍『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)等。

 

文:つやちゃん
編集:Mizuki Takeuchi