よりよい未来の話をしよう

マライ・メントライン|「真に耳の痛い話」を避け続ける宿命は、今日も未来も【連載 あえてSDGsを懐疑してみるのもまた一興】

AIの進化っぷりがスゴい! という話題が巷を賑わせた2020年代前半。

そこで取り沙汰されるAIとは、おおかた作文や対話質問箱、描画ソフトウェアのたぐいで、そのあまりにあまりな「それっぽさ」のでき栄えの見事さを前に、皆の衆は「なんということだ!人間様のクリエイティビティは、著作権の壁はどうなるんだぁぁぁ!」と一時的にうろたえた…。

なぜ、AIは環境問題に対する指針を語らないのだろうか?

しかし、実際その「見事さ」の本質というのは、「お題に対し、入手可能な情報から導出される最適な蓋然性(※1)」の威力であり、想像や創造というよりは「ビッグデータを踏まえた、個別ニーズに対する解法の提示」の高度な具現化と見るほうが適切だろう。

で、あれば。

いまどきの人類の最大の課題の1つたる環境問題について、AI様は何かしら指針を示してくれてもよさそうなものではないか。もちろん完璧な正解など求めはしないけど、「どの程度ほどよく節度を守って生活すれば、人類文明は持続可能っぽくなるか」のベクトルめいたものは、機械らしく冷静にはじき出してくれるのでは?と思うのだ。

でも実際、そういう話は聞かないですよねぇ。

なぜというに、素人考えとして「手塚治虫の作品に出てくるような、人間がコンピュータに支配されるヤバ系世界への第一歩っぽいから、そういう文脈を本能的に避けるんじゃないの?」という意見がいかにも出てきそうである。実際、われわれ一般ピーポーの世界観は確かにそんなものだ(とは言え、ハードウェアに近い「コンピュータ」とソフトウェアである「AI」の混同は、くれぐれも避けておきたいポイント)。

だが、たとえばイーロン・マスクのような人物が、同じような感覚で通俗的な知的タブーを尊重するとはとても思えない。しかも彼は彼でAIにすっごい興味を持っているわけで、何もせずただ指をくわえて状況推移を見守っているだけ、という展開はおそらくありえない。

どこかで、誰かが、何かしら動いているとは思うんですよね。しかも、公明正大で善意に満ちた形ではなくて。

※1 用語:ある事象が起こる可能性や確率を示す概念。特定の結果が生じる「確からしさ」。

「危機」からいきなり「逆転サクセス」?散見する「持続可能性の未来予測」への違和感

陰謀論的にありそうな状況解釈として「最高の電脳環境設定で未来状況をシミュレートさせてみたら、どうあがいても人類に明日はない。というか既存の産業システムに勝ち目はなく、商機もない。要するにいまの世界の権力構造にとっては甚(はなは)だ都合が悪い話であり、ゆえにそういうシミュレーションはそもそも【やっていない】ことになっている」というものが挙げられる。

そんな展開は絶対ありえない!とは言わないけど、いかにもディープステート(陰謀論)うんぬん路線の人が寄ってきそうで困るんですよね(笑) 

というのは一見冗談のようだが、実は意外と馬鹿にできない話だったりする。

なぜというに「持続可能性 未来予測」でネット検索をかけると、分析というよりは想いのバイアスにまみれた提言みたいな話ばかりが出てきて、なんだか違和感がすごいのだ。世界の各研究機関が提示する悲観的な材料(シベリアの永久凍土が溶けるリスクとか)を並べ立てた上で、いきなり「イノベーション」とかいう別次元の言葉が躍り出たあげく、なぜかオールオッケーな素晴らしい未来産業社会像が高らかに謳(うた)われたりするのだ。未来は「予測する」のではなく「創り出す」ことに意味がある、とか言ったりして。 

いやそうじゃなくてさ!

まずは「もし現在の産業構造の基本を変えずにいくなら、どんな感じでどこまで粘れるか」を冷静・冷徹かつ包括的にシミュレートし、その分析をベースとしながら「変革」を訴えるのが本来のスジでしょ、と私は言いたい。

なんと申しますか、「危機」の次の場面がいきなり「逆転サクセス」になっちゃう物語観は、量産型の異世界転生ドラマよりも安直だ。むしろ、3日あれば競馬やパチンコで人生一発逆転できるぜ!楽勝!とかマジで考えている人と濃厚に共通するフンイキがあって、相当まずいと言える。

客観性よりも「蓋然性」の追求に向くという、AIの特性に潜む恐ろしさ

つまり、ここには「直視したくない場面の話は避ける」というお約束めいた共同幻想が窺(うかが)える。ビールでいえば、ノド越し重視というか。いやー、でもそんな心づもりで上手くいくわけがないでしょ。なので、ここはAIの、AIによる、AIならではの冷徹さをもってですね、私が必要とするストロングスタイルな未来図のバリエーション提示を実行して…と思ったところ、

「理屈ではそうなるハズだけど、現実はたぶんそうは動かないよ」

と私のゴーストが囁(ささや)くのであった。うん、言われてみれば直観的に確かにそんな気もする。

それはなぜか?

まず、やっぱ、そういった神託レベルの将来予測のキモの部分って、なんだかんだ言って社会の支配層の寡占状態に留め置かれるように思うのですよ。AIにしても、一見、誰もが深みまでを使いこなせて何でもできるかのように見えていながら、実はそうでもない的な。

あと、とくに学習型AIであれば、その本質からしておそらく「人間的ニーズを遠因とする、意図せざるベクトルの味付け」による影響と無縁ではいられないので、使い込めば使い込むほど、SDGs信者にも懐疑論者にもともに納得感を、というか満足感を与える絶妙な回答を出すようになってしまい、課題の本質が巧みにうやむやになってしまう可能性が無くもない気がする。そう、実は客観性よりも「蓋然性」の追究に向いているという点にこそ、AIの潜在的な恐ろしさはある。

かつてドイツのナチス指導者アドルフ・ヒトラーが権力の階段を上っていたころ、意見や陳情にやってきた客人たちが、ヒトラー信者だけでなく反ナチ的な人までも「こいつなら何か自分のためにやってくれそうだ!」という感触を得て帰ることが多かった、というアレに近しいものを感じずにいられなくて、何気になかなか恐ろしい。客観的な成果を求めているつもりなのに、主観的な達成感をあてがわれて満足してしまうというオチがそこに。

私たちは、AIを適切に活用できる政治家を選び、政治システムを築いていけるのか?

そこで、いま「AIによる社会改良」について、実際に世界の国家レベルでどんな取り組みをしているのか調査してみた。すると、全体的に以下の2つの特徴が同時に浮上してきた。

① 既存の社会システムの効率化に寄与する路線では、いろいろ策が練られている

② それ以上の包括的なレベルの話については、持て余している

この①というのは、たとえば時刻ごとの人間の動きに合わせた交通機関やら社会インフラの稼働最適化などで、ありていにいえば「末端のスムーズ化」である。

問題は②で、その手のアイデアを持っていそうなベンチャー企業の支援にとどまるケースが多い。「上位レベルの方針策定」をAI的なものに委ねた上で、そのアウトプットを検証・評価・コントロールできる技量を、現在の人間社会の政治システムが持ち合わせていないことが窺(うかが)える。

だがしかし、遅かれ早かれ政治はその領域に深く食い込んでいかねばならない。それが社会からの不可逆的な要請だからだ。

おそらく、このへんを観念的かつ実務的に捌(さば)く技量の有無というものが、今後、「政治」の質を評価する焦点として顕在化してくると思われる。それは次第にそうなるかもしれないし、何かのきっかけである日突然明確化するかもしれない。

そして、(いろいろとウラがあるとはいえ)民主主義的な政治システムの中に生きる身としては、その観点でまともなことを目指しているかどうかに着目しながら議員を選出することが、かなり重要な生存要件になってゆくだろう。国としてもコミュニティとしても個人としても、である。

しかし、システム全体の整合性よりも「個人の満足感・達成感」を重視するように「AIに飼いならされた」生活者たちは、そこでちゃんとした判断を下せるものだろうか。何か、大きな矛盾が存在するように思われてならない。

というわけで今回も、「SDGsを真に有効な形で生活習慣の中に取り込むにはどうすればよいか」という目的に向かって進むつもりで、むしろ怖い着地点に至ってしまった感がある。次回に向けて、またもうちょっと工夫が必要なのであった。

 

 

マライ・メントライン
1983年ドイツ北部の港町・キール生まれ。幼い頃より日本に興味を持ち、姫路飾西高校、早稲田大学に留学。ドイツ・ボン大学では日本学を学び、卒業後の2008年から日本で生活を始める。NHK教育テレビの語学講座番組『テレビでドイツ語』に出演したことをきっかけに、翻訳や通訳などの仕事を始める。2015年末からドイツ公共放送の東京支局プロデューサーを務めるほか、テレビ番組へのコメンテーター出演、著述、番組制作と幅広く仕事を展開しており「職業はドイツ人」を自称する。近著に池上彰さん、増田ユリヤさんとの共著『本音で対論!いまどきの「ドイツ」と「日本」』(PHP研究所)がある。

Twitter:@marei_de_pon

 

寄稿:マライ・メントライン
編集:大沼芙実子

 

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