よりよい未来の話をしよう

これからの「ソーシャル・グッド」の話をしよう。「効果的な利他主義」のジレンマを乗り越えるヒントとは|英文学者・河野真太郎

企業が掲げる「ソーシャル・グッド」の落とし穴

最近、「ソーシャル・グッド」という表現をよく耳にする。SDGsともからみつつ、企業の社会的責任を問題にする文脈で使われているようだ。製品であれサービスであれ、社会や環境に配慮したものを生産・消費することと、とりあえずは定義できそうである。

すばらしい、と思われる人が多いだろう。だが、本稿ではこの「ソーシャル・グッド」について疑問を呈しつつ、その理念と歴史について少し広く深く考えてみることで、その疑問に答えていきたい。

まず大きな問題は、この「ソーシャル・グッド」が結局は資本主義の理念に合致するかぎりにおいてしか実行されないということである。

環境問題について考えれば分かりやすいだろう。斎藤幸平は『人新世の「資本論」』(2020年、集英社新書)で、「SDGsは大衆のアヘンである」という主張をしている。つまり、地球温暖化が待ったなしの状況で、ガソリン車をハイブリッドカーもしくは電気自動車に置き換えるといった対応は、あくまで資本主義的な生産体制を維持するための言い訳でしかない。そもそもの資本主義的思想を抑制しなければ私たちが直面する環境問題は解決できないという真の問題から目をそらすためのものでしかないということだ。

「環境負荷の低い製品」を売ることは、そのように、生産と消費を続ける言い訳になってしまう。もっと嫌味な言い方をすれば、企業がソーシャル・グッドに精を出すのは、それが「儲かる」から、ということだ。

もちろんそれはシニカルな見方にすぎないと感じる人もいるだろう。企業の私的な利益と公共の利益が一致するなら、それは大いに結構であり、否定すべきではないのではないか、と。確かに、この「私的利益と公的利益が一致するなら、それでいいではないか」という感情には長い歴史があり、私たちがその外側に出るのはとても難しいことである。

アカデミアを蹴り、ウォール街を選んだ若者と「効果的な利他主義」

ソーシャル・グッドの本質的問題とは、私的利益と公的利益の合致(もしくは相反)にあるようだ。この問題の長い歴史を捉えるためには、今日本で「ソーシャル・グッド」と呼ばれているものが、英語では普通「コモン・グッド(common good)」(共通善)と言われることを押さえておく必要がある。

コモン・グッドはアリストテレス(『政治学』)以来の哲学や政治学、近代の経済学の一大テーマであり続けた。一気にその最新版まで飛ぶなら、話題を呼んだマイケル・サンデルの『実力も運のうち──能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳、2021年、早川書房)の原題は "The Tyranny of Merit: Can We Find the Common Good?"(実力の暴政──共通善(コモン・グッド)を見いだすことは可能か?)である。

本稿ではこの後「ソーシャル・グッド」を「コモン・グッド」に置きかえて、より広い文脈と歴史のもとにこれを考えてみたい。

さて、最近のコモン・グッド(ソーシャル・グッド)の考え方は、思想的には功利主義の伝統の上にある。功利主義の考え方では、私的利益と公的利益との関係は、「最大多数の最大幸福」の基準で判断されることになる。

例えば、ある人にお金の余裕があって、それを貧しい人のための寄附に回すべきであると言えるのは、そうした方が幸福の総量が増すからである。そのお金で贅沢品を買うことは、それなりの満足を生むかもしれないが、食うに困る人がその日のパンを手に入れるほどの幸福を生むとは言えない。

そのような考え方のもとに利他主義的な生き方を実践する人たちに、「効果的な利他主義者(effective altruists)」がいる。哲学者ピーター・シンガーの『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと──〈効果的な利他主義〉のすすめ』(関美和訳、2015年、NHK出版)は副題の通り、効果的な利他主義を肯定的に紹介する。

第1章冒頭で紹介される、シンガーの学生マット・ウェイジのエピソードは印象的である。彼はプリンストン大学で哲学を修め、オクスフォード大学大学院に合格したのだが、それを蹴ってウォール街の金融企業に就職した。その動機というのが、チャリティで世界の病気の子どもたちを救うためには、大学教授の給料よりもウォール街の方がより効果的だからというものだった。ウェイジは一生かけて100人の子どもの命を救うという目標を、ウォール街の収入によって1、2年で達成したという。

ウェイジの態度は、功利主義の伝統の上にある効果的な利他主義を見事に表現している。それは、世界の幸福の総量を増やすために最も効果的な行動を取る。その場合、寄附する側の善意や気持ちに行動の価値が還元されてはならない。寄附を必要とする人やその状況は(金額によって)数値化され、寄附をした方が幸福の量が増すという計算のもと、もっとも効果的にその資源を収集するのである。ウェイジの場合はウォール街で職を見つけることによって。

競争社会と、コモン・グッドの関係

このエピソードをみなさんはどう感じられるだろうか。肯定する人もいれば違和感を抱く人もいるだろう。

私は居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

ウェイジがシンガーに習っていたのは2009年だそうなので、リーマン・ショックのただ中であった。リーマン・ショックは、アメリカの貧しい人たちに住宅ローンを貸付け、それが焦げ付くことによって起きた金融恐慌である。恐慌の後、政府は家を失った人たちではなく、経済秩序を守るためと称して銀行を救済した。それに対する憤懣(ふんまん)から起きたのが、2011年からの「ウォール街を占拠せよ」運動だった。

つまり、ウェイジにとってのコモン・グッドはどれくらい本当に「コモン」だったのか、という疑念を抱かずにはいられないのだ。おそらく理論武装はされているだろう。アメリカで家を買えない貧しい人たちよりも、アフリカの飢えた子供たちの方がより大きな困難に直面しているのだ、というふうに。もちろん、数字の上ではその通りではある。

だが、私を不安にさせるのは、幸福の量は数値化でき、理性の支配によって分配したり最大化したりできるのだ、という確信のようなものである。そのような確信の態度は、何かを排除してはいないか。

この問題を考えるために、ウェイジのエピソードに含まれた、コモン・グッドをめぐるある重要な物語的要素に注目してみたい。それは、「メリトクラシー」(※1)である。先に挙げたサンデルの著書ですでに示唆されているが、近代におけるコモン・グッドの中心問題は、実力(merit)、さらにはメリトクラシーとコモン・グッドとの関係なのである。

メリトクラシーは、まずは個人主義的で利己的なものだと考えられる。それは、個人が「実力と努力」によって社会的地位を向上できる社会構造になっているから。

かといって、この社会は誰かがメリトクラシーのはしごを登るために他の人を蹴落とすような、純然たる競争社会でいいのか。近代においては、この矛盾を解消することが決定的に重要であり続けてきた。つまり、利己的な行動が同時にコモン・グッドになり得ることが重要だったのだ。

※1  用語:能力主義とも訳される。個人の努力や実力次第で、社会的地位の向上が可能になるという概念

利他性が組み込まれた、階級上昇の物語

メリトクラシーという言葉が生まれたのは1958年である。この言葉を造ったのはイギリスの社会学者マイケル・ヤングで、1958年の『メリトクラシー』(窪田鎮夫・山元卯一郎訳、講談社エディトリアル)という著書においてであった。

メリトクラシーという言葉が生まれる前には、この問題は「階級上昇」という視点で捉えられていただろう。本稿では、この階級上昇を、「物語」の観点から論じてみたい。

その物語とは、まずは小説である。小説は、18世紀あたりに生じて19世紀に一気に花開いたジャンルだが、「階級上昇」と小説は一心同体であり続けたといっても過言ではない。イギリス文学を見ても19世紀初頭から半ばのジェイン・オースティン(『高慢と偏見』(1813年)など)は結婚による(ミドルクラス内部での)階級上昇を主題としたし、シャーロット・ブロンテ(『ジェイン・エア』(1847年))、チャールズ・ディケンズ(『大いなる遺産』(1861年)など)も成長物語(ビルドゥングスロマン)と階級上昇物語を常に一体のものとして小説にした。

これらの小説では、主人公の成長と階級上昇が必ず一体のものとなる。だが重要なのは、それは個人的で利己的な上昇であってはならないということだ。何らかの「道徳的正当化」が施される。階級上昇をなし遂げるのは徳の高い個人であるという形で。

その「徳」の中には利他性も含まれるだろう。例えばディケンズの『大いなる遺産』は典型的な物語だ。主人公のピップは脱獄囚のマグウィッチを助ける。やすりを持ってこいと脅されてではあるのだが、彼はクリスマス・ディナーのためにとパイとブランデーを家からくすねてくるという親切を行う。物語の後半では、金持ちになったマグウィッチがピップに恩返しをする。

実はこの型の物語は日本でも身近である。それは『わらしべ長者』だ。この民話の主人公はさまざまな贈与的交換をしているうちに、屋敷と田畑を手に入れる。

いずれの物語においても、利他性が主人公の階級上昇をもたらす。これはひっくり返すと、階級上昇に道徳的な正当化が加えられていると言えるだろう。

ウォール街に就職したマット・ウェイジの物語も、この物語の末裔ではないだろうか。必ずしも、彼が金儲けをしたくてそれを正当化するために寄附をしている、ということではない。もう少し複雑な形で、彼の功利主義的な物語が、コモン・グッドと階級上昇、そして資本主義との間の軋轢を解消しようとするより広いイデオロギーの一部になっているのではないかということだ。彼のある種のビルドゥングスロマンと階級上昇(ウォール街への就職)はその利他性によって正当化されている。

『羊たちの沈黙』が表す、メリトクラシーとコモン・グッドの限界

マット・ウェイジの物語に問題ありかもしれないと私が感じているのは、先述の通り、その「コモン・グッド」の「コモン」が本当にコモンかどうかという疑いのためであった。

現代的なメリトクラシー/階級上昇とコモン・グッドをめぐる物語で、同じような限界に突き当たったのが、映画『羊たちの沈黙』(1991年)であった。

『羊たちの沈黙』の主人公クラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)はFBIアカデミーの実習生。アメリカ各地で起こっている、若い女性の皮膚をはぎ取って殺すという猟奇事件(犯人は「バッファロー・ビル」と呼称される)を解決すべく、クラリスは抜擢される。元精神科医だが、凶悪事件を起こした罪で収監中のハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンズ)と面会し、バッファロー・ビルの心理分析と助言を求める。

物語の本筋は、クラリスがレクターの助言を受けながらみごとバッファロー・ビルを特定し、監禁された女性を救い出すというものである。

重要なのは、この物語が階級上昇物語、それも女性の(「フェミニズム」的な)階級上昇物語になっていることである。映画を通して、クラリスは男社会の警察の中で女性としての差別を受け続けるが、それをはねのけて功績を挙げる。また、レクターはクラリスが下層階級白人の家庭の出身(父は保安官)でFBIというエリートへと階級上昇しようとしていることを指摘する。クラリスにとってFBI捜査官になることは、階級上昇と同時にフェミニズム的な平等の獲得という意味を持つ。

さて、クラリスの階級上昇はどのように正当化されているだろうか。彼女の出世はどのようなコモン・グッドの物語に支えられているのか。

それは、フェミニズムの物語である。クラリスのフェミニズムと階級上昇は個人的成功に留められるものではない。彼女がFBIで出世することは、彼女個人の利益となるだけではなく、広く世の女性のためなのだ。そのことは、直接的には、「バッファロー・ビル」事件の犠牲者が若い女性たちであり、クラリスが彼女(たち)を救うということによって表現されている。

『羊たちの沈黙』というタイトルは、保安官だった父の死後、引き取られた牧羊家の叔父の家で屠殺されそうになっている羊を逃そうとするが、羊たちはただ死を受動的に待つばかりだったというエピソードが元になっている。

この羊たちは、家父長制に抑圧される女性たちのメタファーだろう。クラリスは、FBI捜査官となることによって、そういった女性たちを解放したかった。それが彼女のコモン・グッドである。

だが、このコモン・グッドには2つの問題がある。

ひとつにはこれが、ポストフェミニズム的な「トリクルダウン」理論であることだ。トリクルダウンというのは、一部の人間が巨大な富を得ることは、その富が他の人びとにしたたり落ちる(トリクルダウン)ゆえに正当化されるという考え方である。

ポストフェミニズム(フェミニズム以後)とも言われる現在において、例えばフェイスブックの元COOのシェリル・サンドバーグのような人が自分をフェミニストだと言える背景には、このトリクルダウン理論があるだろう。

しかし、現在、貧富の差は開くばかりである。自由競争を金科玉条とする現在の新自由主義社会においては、放っておいて富がしたたり落ちてくるようなことはない。

もう1つは、『羊たちの沈黙』のトランスセクシュアル差別的な表象の問題である。「バッファロー・ビル」は最終的に、トランスセクシュアルであることが明らかになる。この、猟奇殺人者とトランスセクシュアルを結びつけるという連想は、トランスセクシュアル差別的な紋切り型だ(Netflixのドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド 過去、現在、そして』(2020年)を参照)。さらにビルは登場時に障がい者のふりをする。ここには障がい者嫌悪/差別も重ねられている。

つまり、クラリスの「コモン・グッド」の「コモン」の中にトランスセクシュアルや障がい者は入っているのかどうか。排除に基づいた「コモン」ではないのか。この大きな問題を『羊たちの沈黙』は抱えもってしまっている。

「社会への信」と贈与交換。私たちが真のコモンをつくるためのヒント

さて、それでは、どうすればいいだろうか。個人の利益や階級上昇は、常に「コモン・グッド」と矛盾しないような操作が加えられてきた。「効果的な利他主義」はその最新版である。それ以外の道はないのか。ひとつの道は、「福祉国家」をつくりなおすことである。富の再分配の機構としての福祉国家を再構築すること。

それと別に、私たちの倫理として、どのような態度が可能なのだろうか?

全てを数値化して理性的に解決するという「効果的な利他主義」の危うさは、ピーター・シンガーが肯定的に紹介している、子どもを持つことに関する効果的な利他主義者の考え方に表現されている。

効果的な利他主義の考え方では、豊かな人が子どもを持って自分の子どもだけに資源を費やすことは間違っているが、親の価値観が子どもに影響を与えることを考えると、「効果的な利他主義者の子どもが、その一生のあいだに悪いことよりいいことを多く行う…可能性はある程度高」い。そこから、シンガーは次のように述べる。

世の中のためにいいことをしたいと心がけている人たちが全員子供を作らず、他人のことなどまったく気にかけない人だけが子供を持つとしたら、その逆の場合よりも数世代後に世界はよりよい場所になっているでしょうか?

利他主義者は子どもを持つことが正当化されるけれども、利己主義者は子どもを持つべきではないということである。

「利他主義」がいつのまにかこのような、存在に値する人間と値しない人間とのあいだの区別へと帰結するのはいったいどういうわけだろうか?ここから、「効果的な利他主義」の、「コモン」が真のコモンではないという第2の問題点が帰結する。

もちろん、功利主義はまさにこの「コモン」のジレンマの解決のために生じた思想である。だが、その徹底の果てに、「子どもを持つこと」について見たような考え方が出てくることにはやはり不穏なものを感じざるを得ない。

最後に、そのような「徹底」とは別の道を示唆しておきたい。それは、個人の階級上昇物語とコモン・グッドのあいだの矛盾を解消する物語として挙げたディケンズの『大いなる遺産』や日本民話の『わらしべ長者』が、じつはそのようなものから逸脱していたかもしれないということである。

『大いなる遺産』のピップや『わらしべ長者』の男は、贈与をし、その返礼によって階級上昇をなし遂げている。だが、ここで厳密に理解しなければならないのは、この2人は幸福の量を数値化して最大化する選択肢を選ぶといったことからは遠く離れた場所にいることだ。

それほど複雑な話ではない。要するに2人が贈与(パイをあげたり、わらしべを子どもにあげたり)する時には、「丸損」をする可能性があったのだ。2人は、返礼を計算して贈与を行うわけではない。では、無一文になる可能性もある2人が贈与を行うのはなぜか?

それは、2人が、数値化に基づくわけではない「社会」への信としか呼べないようなものを持っているからである。それはマルセル・モースが『贈与論』で描いたような、現代の資本主義の外側でありつつも資本主義の土台のようにもなっている、贈与交換の社会である。そこでは行動の効用の最大化を計算したり、コスト・ベネフィットという形で贈与と報酬を考えたりといったことは行われず、言わば盲目の跳躍としての贈与が行われるだろう。

私たちがそのような「社会」を想像し、それを信じることができるようになるかどうか。これがコモン・グッドをめぐる最大の疑問であり到達点だ。

 

河野真太郎
1974年、山口県生まれ。専門はイギリス文学・文化ならびに新自由主義の文化と社会。専修大学国際コミュニケーション学部教授。東京大学大学院人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。一橋大学准教授などを経て現職。著書に『〈田舎と都会〉の系譜学——二〇世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房)『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)『この自由な世界と私たちの帰る場所』(青土社)。

 

文:河野真太郎
編集:Mizuki Takeuchi