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宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』ーー「極端な時代」に猥雑で複雑な他者と共に生きるためのヒントとは|英文学者・河野真太郎

(編集部注:記事内で『君たちはどう生きるか』本編の内容に触れています)

宮﨑駿監督の新作『君たちはどう生きるか』は、公開前の宣伝や情報公開を一切行わないという異例の状況のなかでの公開となった。私は期待と不安を胸に公開日に劇場に足を運んだが、その第一印象は、全部見たことがあるような気がするのに、全てが新しい、というものだった。宮﨑駿とジブリのこれまでが全て詰まっているにもかかわらず、確実にこれまで見たことのない、新しい宮﨑作品となっていることへの驚きだ。宮﨑駿という人の、枯れることのない創造力に心の底から驚嘆した。その印象は、鑑賞から数日経った今でも変わっていない。

その一方で、公開以降、私のような絶賛の声もあれば、「分からない」という声もまた目立った。まるで夢の中のように生起するさまざまな出来事や文物に、最終的に分かりやすい説明が与えられることはない。そのあり方はこれまでの宮﨑作品と比較しても突出しており、「分からない」という声が出ることも理解できる。

本稿ではこの作品の「分かりにくさ」の核心だと私が考える作品の構造について解説を加えた上で、その部分こそがこの作品を名作たらしめていることを示したいと思う。

主人公の牧眞人(まき・まひと)が下っていく「下」の世界とは何か、そして「石」とは何か。この作品の主題にかかわる問題である。

これらの象徴に関して、多重の意味があるとだけ言うのは簡単である。本稿では観る人の数だけの解釈があるといった生ぬるい相対主義は退け、これらの象徴には緻密に組み上げられた多重性があることを具体的に示したい。

「下」の世界とは何か?

taken by Sascha Askani

時代は戦争の4年目。前の年に空襲による火災で母を失った主人公の眞人は母の実家に疎開する。父は実母の妹の夏子おばさんと再婚し、夏子はすでに妊娠している。広大な実家の敷地には謎の「塔」が立っている。塔の由来と内部構造については様々な伝来があり、現在は入り口が埋められた状態である。やがてつわりがひどく寝込んだ夏子が森に消えるのを眞人は目撃する。一方で眞人は、謎のアオサギに彼の母が生きていると告げられ、夏子を探しつつアオサギに誘われて、屋敷の老女中たちの1人のキリコとともに塔へと入り、姿を消した夏子を探求するために塔の地下の世界(この世界はさまざまな呼ばれ方をするが、本稿では「下」の世界と呼ぶ)へと旅立つ。

以上が『君たちはどう生きるか』序盤の基本設定である。

物語としてはこの作品は非常にシンプルである。世の中の物語の多くは葛藤(コンフリクト)とその解消ででき上がっている。この物語の葛藤とは、眞人が夏子を母として受け容れられないことであり、その解消は「夏子かあさん」と呼べることである。最初の語りによれば、眞人の実母が死去したのは戦争の3年目、疎開したのは4年目なので、1年ほどの間に父は再婚し、夏子は妊娠したことになる。これを中学に通う思春期の眞人が受け容れられないのも当然であろう。

そして継母を受け容れるというプロセスは、眞人のイニシエーション(思春期の成長)のプロセスともなる。このイニシエーション物語の定型は「行きて帰りし」の物語だ。「行きて帰りし」という表現は『指輪物語』のJ. R. R. トールキンの作品『ホビットの冒険』の原題『ホビットーーゆきて帰りし物語(The Hobbit: Or There and Back Again)』から来ている。「行きて帰りし」物語といえば、宮﨑駿監督の『千と千尋の神隠し』(2001)そのものが今やその典型として扱われている。

『君たちはどう生きるか』は、その「行きて帰りし」物語の中でも原型と言えるギリシャ神話のオルフェウスの物語を利用している。オルフェウスが愛するエウリュディケーの死を嘆き、彼女を取り戻すために冥界へ下り、冥界の王ハデスの計らいで2人は生者の世界に戻れることになるが、生者の世界に戻るまでふり返ってエウリュディケーを見てはならないというハデスの命令をオルフェウスは守ることができず、エウリュディケーは失われるという悲劇である。

眞人の冥界下りの目的は、実母を直接に取り戻すことではなく、実母の死を受け容れ、同時に夏子という新たな母を受け容れることではあるが、この解釈においては「下」の世界はオルフェウス物語における冥界に等しいだろう(ちなみにより直接的にはジョン・コナリーの『失われたものたちの本』が参照されている)。

ただしこの冥界は死者の場であると同時に、新たな生命が生まれる場でもある。「わらわら」という、『となりのトトロ』(1988)のまっくろくろすけ、『もののけ姫』(1997)のこだま、『千と千尋の神隠し』のススワタリを彷彿とさせる小さくかわいい生物は、「熟す」と空へ飛んでいって上の世界(生者の世界)で人間として生まれるのだという。「下」の世界はそのような、生と死の間の世界と言うことができる。

「ジブリ作品」としての「下」の世界

「下」の世界には第2のレイヤーがある。それは、物語作品、アニメ作品、さらに言えばジブリ=宮﨑作品そのものというレイヤーだ。

『君たちはどう生きるか』の画作りには少なくとも3つのモードがある。

1つは冒頭の火事の場面。この場面の前衛的な表現はこれまでの宮﨑作品にはない新機軸で、迫力満点であった。もう1つは「上」の世界。つまり疎開先の屋敷の世界で、これは宮﨑作品のスタンダードなタッチで描かれる。

第1のモードが物語の結節点となるトラウマ的な瞬間を描くなら、第2のモードは物語の日常的現実を描く。

3つ目が「下」の世界。この世界の背景は粗い油絵調となる。そして3つ目のモードにおいては、キャラクターが「漫画」化する(漫画映画としての本作品についてはすでに叶精二氏が説得的に論じている[※1])。アオサギの変容が象徴的だろう。アオサギは第3のモードが第2のモードの中に漏出してしまった存在である。

この3つ目のモードについて印象的なのは、冒頭で述べたようにこれまでの宮崎作品の引用に溢れていることである。『未来少年コナン』(1978)的な海と島の世界、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)や『名探偵ホームズ』(1984)のような漫画的なドタバタの世界、『風の谷のナウシカ』(1984)的な意志のある「自然」の世界、『天空の城ラピュタ』(1986)の「石」と「木」の世界、『千と千尋の神隠し』の猥雑で危険な世界、『魔女の宅急便』(1989)や『ハウルの動く城』(2004)のような魔法と魔女の世界、『となりのトトロ』や『崖の上のポニョ』(2008)における生物の変幻自在な変身の世界…。

ほとんどこれまでの宮﨑作品のダイジェストのようでいて、でも単なる懐古ではなく新しい。これは最初に述べた通りである。

「下」の世界が宮﨑作品そのものだとすれば、それを統べる大おじは宮﨑駿その人だということになるだろう。

そのように解釈した場合、彼が石を積む行為(それによって世界を延命させている)は、アニメ作品を作ることにほかならない。この観点では、この映画の主題は、眞人のイニシエーションではなく、映画を作る行為そのものについてのものだということになる。キャリアの終わりが見えてきた宮﨑駿が、自分はこのようなものを作ってきたし、今でもこの水準で作ることができる。さて、君たちはどうする?──そのような問いかけが、この映画の主題だということになる。

※1 シネマカフェ 「『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を超越した『漫画映画』への回帰」
https://www.cinemacafe.net/article/2023/07/21/86462.html

石と木のあいだーー物語を受容することと「冥界行き」の類似点

さて、ここですでにこの作品は2つのベクトルに引き裂かれているように見えるし、それが「分かりにくさ」の大きな源泉になっている。だが、私はこの2つは引き裂かれてはおらず、それこそが大事だと思っている。

どういうことか。

私たちにとって、「物語」とは冥界行きにほかならないということだ。つまり、物語を受容する(この場合、ジブリアニメを観る)行為そのものが、冥界巡りであり、イニシエーションである。そう考えれば、眞人の冥界巡りと、その冥界がジブリアニメの世界であることはなんら矛盾しない。

これは宮﨑=ジブリに限った話ではない。私たちはみな、「現実」だけに生き、そこだけで成長しているわけではない。幼い頃からさまざまな形で触れあい、没入してきた物語世界は、現実と同じか、下手をすれば現実以上に私たちの人格を形成してきている。そして、物語世界とはまさに生と死のあいだの、生物(英語で言えばanimateなもの)と無生物(inanimateなもの)とのあいだの世界である。

ここで、前述したように、映画を示す「石」という象徴が、ほかならぬ石であることが重要な意味を持つだろう。この作品での石と木の対比(私はそれを、象徴の水準だけではなく足音のサウンド・エフェクトに強く感じた)は、もちろん『天空の城ラピュタ』の引用なのだが、それではそこで、石とは人工的で技術的で無生物的なもの、木は自然で生物的なもの、という二項対立が保持されているのだろうか?

アニメーションとは、その二項対立を乗り越えようとする営為である。アニメは元々、静止画で出来上がっている。静止画=石を活き活きとした動画=木へと変えるのが、アニメーションの魔法である。それはinanimateなものからanimateなものを生み出す。それは死であり生でもある。またはそれらのあいだにいる。

大おじが宮﨑駿であるなら、彼の石積みとはそのような行為だったということになる。石を積み上げて世界を創りあげ、それを少年少女のための生きた成長の場として提示すること。

これは異世界ものの定番でもあるが、生者の世界に戻った際に記憶が失われるということも、この文脈では非常に意義深い。それはこういうことではないか──私たちは、君たちは、必ず物語の世界に運ばれることによって現実の成長をなし遂げている。でも、その成長が本当の意味で血肉になった時、その物語は記憶の彼方に去っているだろう。物語は、そしてその作者は、忘れられることによってこそ、その役割を果たすんだ、と。

生きることについてーーアオサギとは誰か

だがさらに、石を積むことが象徴するのはアニメ制作だけではない。それはやはり、「世界」そのものについての暗喩でもある。大おじが石を積むことで目指すのは「豊かで平和で美しい世界」である。そのような世界への希求は、設定された第二次世界大戦中という、混乱と不安と突然の死に支配された世界においては喫緊のものであるに違いない。それは、災害や疫病だけではなく戦争や経済破綻が私たちの顔を覗き込んできている現在においても、深刻な願いだろう。

だが、宮﨑作品が常に示してきたのは、世界はそのような理想的な場所ではない、ということだ。そして、豊かでも平和でも美しくもない世界で、私たちは生きる術をつかまなければならないということだ。漫画版の『風の谷のナウシカ』の最後のナウシカの台詞「生きねば」、『もののけ姫』のキャッチコピー「生きろ。」、『風立ちぬ』(2013)のキャッチコピー「生きねば。」に込められたのはそのようなメッセージである。

例えば『風の谷のナウシカ』であれば、映画版と違って漫画版では、腐海というエコロジー清掃システムによって浄化された世界というヴィジョンは否定される。世界はどこまで行っても汚濁にまみれているし、人間は愚かなままである。ナウシカは、そのような世界で、「生きねば」と言うのである。

私は、このような「生きねば」という思想に、残酷な部分があるのではないかと感じ続けてきたことは告白せねばならない。

私たちは本当に、「豊かで平和で美しい世界」を諦めて、汚辱に満ちた世界に耐えて生きていかなければならないのか。ひょっとするとそのような諦念を私たちが抱くことが好都合だと考えている人たちがこの世の中にはいるのではないか。大おじの抱くような理想の役割を手放してはいけないのではないか、と。

しかしその一方で、今回の主人公眞人の人物像を見るとき、上記のような「生きねば」の思想の重要性もまた分かる。眞人はどこか人を寄せつけず、潔癖に理想を追い求めるがゆえに、この物語が置かれたような歴史的文脈では軍国少年となって全体主義に適応しそうな部分があるように感じられる(これは宮﨑駿自身の少年時代を反映したものであろう──宮﨑はその後、「日本」に対する大きな幻滅を覚えるのだが。また、彼のような理想主義者として想起するのは、漫画版『風の谷のナウシカ』の、土鬼諸侯国連合帝国皇帝のナムリスである)。

理想にだけ生きるのではなく、猥雑で複雑な現実と共に生きることを学ばなければならない。そのことは、「極端な時代」(歴史家のエリック・ホブズボームが20世紀を評して言った言葉──これは現在についても言えるだろう)を生きる私たちにとって決定的に重要になってきている。

『君たちはどう生きるか』では、それについての答えは実は序盤から用意されていた。

アオサギである。アオサギは当初は謎の悪意をもって眞人に接近してくるが、「漫画キャラ化」した後は、利己主義的で風見鶏的な人格を持ちつつ、結果的には眞人の旅路をサポートしていく。眞人も彼に対する敵意や不信は拭えないままにも見えるが、最後にはアオサギを友達と呼ぶことになる。

アオサギは、猥雑で複雑で理解不可能な他者、世間のような存在である。この物語は眞人のイニシエーション、成長物語だと述べたが、アオサギのような他者を友達と名指して共に暮らせるようになること、または、世界というのはそのような他者に満ちた世界であることを認めること、それこそが眞人の成長だったのだ。

猥雑で複雑な世界と共に生きるための処方箋としての「解釈と批評」

最後に、私たち観客が眞人のような成長を得る1つの方法を示唆しておきたい。それは解釈と批評である。

『君たちはどう生きるか』は、謎めいた象徴が多いこともあって、早くも数々の解釈がなされてきている。本稿もその試みの1つである。私はそのように解釈の余地の大きい作品を世に問うたのは、宮﨑駿の挑戦状だと思う。挑戦状というのは、謎を提示して正解を出してみせろ、という意味での挑戦状ではない。

あらゆる作品は解釈に開かれている。解釈の中にはもちろん間違った解釈もある。だが1つだけの正解があるわけでもない。ましてや、「作者の意図」を絶対化してそれ以外の解釈を否認することは、実は作品を殺すことにもなり得る。(最近、「考察」がもてはやされて「批評」の評判が悪い背景には、作者の意図の絶対化がありそうだ。)

さまざまな解釈に耳を傾け、それを自分の解釈と照らし合わせ、部分否定と部分肯定を繰り返して自分の解釈を、そしてその集積としての世界観を構築していくこと。そして構築された世界観も、新たな他者による解釈に開かれていること。アオサギの声にも耳を傾けること。

それこそ様々な解釈に開かれた『君たちはどう生きるか』のような作品を送り出した宮﨑駿の問いかけは、そのような開かれた解釈の討議場を私たちが作ることができるか、という問いかけでもあった。言い換えれば、解釈をしつつ、解釈が届かない「分かりにくさ」も手放さないでいることができるかどうか。それは、猥雑で複雑な世界に対峙し、「極端な時代」に人類が殺されないための処方箋である。

 

河野真太郎
1974年、山口県生まれ。専門はイギリス文学・文化ならびに新自由主義の文化と社会。専修大学国際コミュニケーション学部教授。東京大学大学院人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。一橋大学准教授などを経て現職。著書に『〈田舎と都会〉の系譜学——二〇世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房)『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)『この自由な世界と私たちの帰る場所』(青土社)。

 

文:河野真太郎
編集:Mizuki Takeuchi