よりよい未来の話をしよう

「死者との対話から生きることそのものを描く、映画『マイ・ブロークン・マリコ』レビュー

※本記事は、一部、作品の結末に言及しています。

骨壷にかぶせる布のカバーってあるじゃないですか、あれ、なんであんなにきれいなんでしょうね。いい意味じゃなくて、嘘っぽくないですか。嘘、嘘なんだよ。白くてのっぺりしてて、中に何が入っているのか隠さなくていいくせに覆い隠している。
なぜ隠しているの?
骨に痛みがないとでも言いたいのか?

『マイ・ブロークン・マリコ』は死者との対話の物語であり、女性同士の絆とその断絶/再生の物語であり、生きることそのものの物語である。
タイトルのマリコとは、イカガワマリコ(演・奈緒)。主人公である会社員、シイノトモヨ(演・永野芽郁)の唯一の親友だった。マリコは26歳のある日、中野区の自宅マンションから飛び降りて自殺してしまう。シイノはそれをニュースで知った。何が引き金になったのかはわからない。本人からの知らせも、家族からの知らせもなかった。
マリコの死を受け止めきれなくなったシイノは、せめてマリコの亡骸に出会うべくマリコの実家へと赴く。マリコは子どものときから実父に虐待されており、高校生のときには性的虐待までそこに加わっていた。マリコを弔うのはお前じゃねえ、あたしだよ。シイノは包丁をカバンに放りこんでマリコの家に押し入り、遺骨を奪って窓から走り出したのだった。
行き先はどうする? あんたの行きたいところへ行こう。シイノの脳裏には、マリコが不意の言葉遊びで行きたいと語っていた海辺「まりがおか岬」が蘇った。まりがおか岬! 見たこともない北の海を目指して、シイノは遺骨を抱いて旅に出る。2人だけの旅に。

映画の中で、シイノはずっとマリコに語りかけている。近くに人がいようとお構いなしに、常にマリコに対する言葉を発し、生前の、思い出の中のマリコがどうであったかを何の説明もなく口に出し続ける。そのたびに映像はシイノの中に残されたマリコの記憶を再生し、回想を丁寧に挿入する。記憶の中のマリコが何度でもシイノの名前を呼ぶ。
シィちゃん。

死者と会話ができたらどんなにいいだろうかと、親しい人を亡くしたことのある人ならばきっと誰でも思う。だが死者は喋らない――少なくとも生きていたころのようには。だから残された側の人間にできるのは、ひたすらに死者に語りかけることなのだと思う。もともとミニマムに完成されていた原作漫画『マイ・ブロークン・マリコ』(平庫ワカ/KADOKAWA)でも、シイノは同様の行動を取っているのだけれど、映像に落とし込まれてみるとシイノの呼びかけはより切実なものとして浮上していた。

©平庫ワカ/KADOKAWA 原作:平庫ワカ KADOKAWAにて発売中

夜道で切れかけた街灯に照らされながら、マリコに行き先を訪ねるシイノ。見知らぬ街の酒場で飲んだくれているときに地元のおっさんたちに絡まれるも、突然マリコに向けて叫び出すシイノ。ひったくりに遭って無一文になっていたところを助けてくれた青年・マキオ(演・窪田正孝)の前で、突然前置きもなく「あの子」の話をし始めるシイノ。どれもリアルな映像空間の中では「おかしな行動」ではあるのだけれど(永野芽郁演じるシイノのちょっと作り物っぽい乱暴な口調も相まって、確かに浮いている)、シイノにとってはそうするしかなかった、それ以外にできることがなかったがゆえの行動なのだと、映像は切々と伝えている。

映像ならではの演出に関して特筆すべきなのは、ごく重要なシーンでマリコが実際に現実にオーバーラップして出現するところだ。そしてそのマリコの姿は、シイノの記憶に応じて異なる姿で現れる。まりがおか岬へ向かう夜行バスの中では、遺骨が中学生のマリコになってシイノの膝の上で眠る。まりがおか岬にたどり着いたとき、大人の姿のマリコがシイノをそっと抱きしめる。それらはあくまでもシイノの記憶から呼び出された姿であって、マリコの霊魂ではない。シイノの記憶も再生するたびに擦り切れるダビングテープのように、勝手にマリコを美しくしてしまう。生きていた頃の愛おしい雑味を置き去りにして、死者は遠くなる。その苦しさが、画面いっぱいに充満していた。決してマリコとの思い出は明るいものばかりではないのに、思い出のマリコは微笑んでいるのだ。それが生きている人間にとっていかに悔しいことなのか、本作は骨の髄まで理解しているのだと思った。

私が映画を見ながら涙を流すほかなかったのは、今の社会では女性同士の絆を信じることがいかに難しいか、物語が血を流すように語っていると感じたからだ。マリコは「シィちゃんに彼氏ができたら死ぬ」と言ってシイノの前でリストカットして見せるけれど、自分に彼氏ができたらシイノへの連絡はおろそかになるし、彼氏は軒並み悪い男ばかりだ。シイノは自分にはマリコしかいなかったと独白しているけれど、少なくとも作中の回想シーンでは、マリコにその真意を伝えている場面がない。かろうじてマリコがシイノに「おばあちゃんになるまで一緒にいて、いつか猫を飼おう」と言い、シイノもそれに頷くけれど、それは実現しない。2人とも死ぬほど、文字通り死ぬほどにお互いを必要としていたにも関わらず、結局最後までその思いがまっすぐ通じ合うことはなかったのだ。
物語自体がすべてシイノの側からの語りに留まり、マリコの側に視点が転換する瞬間を迎えないのは、その「信じ合えなさ」を浮き彫りにしている。どこか、どこかにタイミングがあったのだろうか? マリコが自分を虐げる悪い恋人たちと手を切ってシイノに向き合う覚悟を決める瞬間が、シイノが照れたり動揺したりするのをやめてマリコに素直な愛を伝える瞬間が、それらが噛み合う瞬間がありえたのだろうか? 
率直に答えを言うなら、そんな瞬間はなかった。だってそんな瞬間は来ないままマリコは身を投げてしまったから。それだけが現実で、時間は不可逆だった。いくらシイノがマリコに「感覚ぶっ壊れてんじゃねえの」と叫ぼうが、マリコは「私ぶっ壊れてるの」と微笑むばかりだったのだ。永野芽郁の絶叫と、奈緒の静かな微笑みによって織り成される2人の物語は、2人の繋ぎきれない手について極めて雄弁である。
そして同時に、繋ぎきれない手はお互い伸ばしあっていた手でもあると、確かに教えてくれる。

物語が進むにつれて、あの嘘みたいに真っ白だった骨壷カバーは、シイノの腕の中で汚れていく。そして最後に、骨は還るべき場所に還っていく。シイノはシイノで、もう一度日常に戻っていく。気だるい日の光に照らされて弁当をかきこむシイノは、もう明日のことを考えているに違いない。
死んでしまった人に何かできることはないの。もう手は届かないの。本作はそれを繰り返し問う。はっきり言えば、できることは多くない。だがその届かない指の先を見ることならできて、そうやって人は生きているのかもしれないと思う。今日もどこかで誰かが亡くなって、誰かがぼろぼろになって、ぼろぼろになった誰かもまたシイノみたいに日常に帰るのだ。
本当は見えているよりずっと全ては張り詰めていて、みな死者への思いで破裂しそうな何かを抱えているのかもしれない。だがエンディングでTheピーズの「生きのばし」が流れるころ、死者のために伸ばされた手が人を生かす日があるのだと、鑑賞者はきっともう知っている。

『マイ・ブロークン・マリコ』
9月30日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開
配給:ハピネットファントム・スタジオ/KADOKAWA
(C)2022 映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会

文:高島鈴
編集:日比楽那

 

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