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連載「わたしと選挙」を考えるー第5回 マライ・メントラインー 「選挙でどうせ何も変わらない」という感触を掘り下げると、どこに行きつくか?

連載「わたしと選挙を考える」では、政治や選挙、社会との関わり方について、これまでにもさまざまな方に発信いただいた。2022年夏、参議院議員通常選挙の投票日を目前に今あなたは何を思うだろうか。第5回は、日独翻訳や通訳・プロデューサーでありながら、職業:ドイツ人でもあるマライ・メントラインさんに思いを寄せてもらった。

日本の世間では、なんだかんだ言って「選挙ではどうせ何も変わらない」的な空気がけっこう支配的だ。もちろん、特に有識者やオピニオンリーダーのような人は「そうじゃない!」と力説し、その正論には正面を切って反論しにくい。かといって、それで「体感的な真実」っぽさが払拭できるわけではない。

このネガティブな説得力の正体は何なのだろう?
ちなみにドイツ人の場合、私を含めて「選挙によって政治や社会のベクトルは変わる」と感じているケースが多いだけに、すごく気になるのだ。

私は社会人や学生の日独交流研修プログラムに通訳として参加することがあり、そこでよく、社会・政治参画についての両国の若者の感覚的な違いを目の当たりにする。
そのなかで印象的だったのが、ある日本人の学生が「政治は面倒だし、縁遠い存在だし…」と述べたのに対し、ドイツ人の学生が「政治は身近なものでしょ!だって、家から1歩外に出たら、全部『政治』だよ。学校で生徒会長を決めるのも立派な『政治』。むしろ、日常生活に係ることで『政治』的じゃないことなんて、1つもないんだ!」と述べて、場の雰囲気が一気に変わり、知的アゲアゲな勢いが爆誕した瞬間だ。これは自分の鼎談本でも述べた逸話であり、今なおこのドイツ人学生の言葉は有効さを失っていないとは思う。だが、その啓発力だけで日本の若者たちの政治観が次第に刷新されていって、いずれオールオッケーな世界が来てくれる、とも思えない。そう、何かのはずみで、一時的に「政治って身近で面白いんだ!」とコンセプトのようなワクワク感に浸っても、いつの間にか元の穴蔵に舞い戻ってしまう。私は知っている。その重力は絶大だ。

こうなってしまう主たる理由の1つが、公的教育における「政治」の教え方だろう。日本の場合、教育の場で教えられる「政治」はリアルな現状ではなく「こうあるべき」という理想論や、小選挙区制と中選挙区制がどうのといった、システムの無難な説明に終始しているからではないかと思う。得てして、子どもたちは大人の想定以上に賢いということを忘れてはならない。彼らは、学校で教わる「政治」がどこまでも建前に過ぎないこと、現実で自分の家は集票マシンの利権利得メカニズムに組み込まれていて、そのリアリティは学校の教育カリキュラムからは1グラムも汲み取れないこと、でも学校で教わる建前を真に受けているフリをしておかないと、試験でいい点が取れず、処世術的にマイナスになること…などなど、大人の事情も含めて全て百も承知なのである。シラけるのも当然だ。

そもそも日本の初等・中等教育では、公的な建前を“いちおう”尊重して生きていれば、やがてそこそこ理想的な社会が実現しますよ、という期待と通念を醸成しやすいように感じられる。この建前の尊重力を育てる土壌から、政治的な自主性や積極性の発育を期待するのは難しいのかもしれない。

一方、日本に比べてドイツでは…と欧米アゲする流儀は好きじゃないのだけれど、これは心理メカニズム的な本質に係る話なので、あえて申し上げよう。

ドイツの学校の授業では、社会的な理想だけでなくゲスい現実も踏まえた上で、遠慮なく議論・討論する。そして、よりオフィシャルな正解っぽい意見を放つ者ではなく、より説得力豊かな論拠を用意し、適切に駆使する者が評価されやすいのだ。もちろん、いつでもどこでもドイツなら100%そうだ、とは言い切れないが、一応それが基本ベクトルであり、そしてそれが「教養」の根っこにある資質の鍛錬というものだ。知的好奇心を強く揺さぶり、刺激し、参加し、それでいて面白い。ゆえに公的教育で培われた知力と感性が、現実社会における政治社会的行動につながりやすい。学校教育と投票行動の間に、リアルな地続き感があるのだ。

そのような教育を受けてきた人間による政治活動では、政党ごとの政策や綱領の多彩さも自然と「本気」度が高くなるし、政治家と有権者の意思疎通も有意義なものになりやすい。議論プロトコールの共有はとても重要だ。それを公共教育のころから実践し、体感してきているからこそ「政策転換」「社会の構造変化」という期待要素に、自らの体験に裏付けされた説得力が上乗せされ、いち有権者として参加する選挙での投票にもやりがいが生じるのだ。

言い換えれば、ドイツでは公的教育の現場で、知的パワーゲームの原理を子どもたちに自然に教え、鍛えていると言える。相手を説得するための知略、機略。いわゆる「戦後」という要素に照らしてみた場合、それはたとえば「有効な知的戦闘術を身につけておかないと、ナチの再来を防止できないかもしれない」という危機感を背景としている。
この点も日本とは対照的で、日本ではそもそもパワーゲームのような観点を「軍国主義を招来するもの」として忌避するインテリがけっこう多い。右派からは「お花畑」と揶揄される知的姿勢であり、私も正直どうかと思うのだが、実際、「武器を取り去ればその場は平和になるはず」という理性信仰は、今なお、妙に強力だ。ドイツにも信者は居るけど日本の方が多く、そして妙な自信に満ちていると感じる。

この理性信仰がなぜ、特に日本で一定の強力さを維持し続けてきたかといえば、それは「戦後80年弱、とにかく対外戦争に深く巻き込まれなかった」ことを実績に見立てているからだろう。ドイツも同じでは?と言われそうだが、ドイツは常に周辺国とのエグい駆け引きに晒されており、平和主義の尊重を標榜する傍らで、軍事国家としてのブランド性もガッツリ維持しているので、その状況は日本とはかなり異なる。そしてこの事象は、日本国民の平和主義的な理性が周辺国を圧倒していたからではなく、覇権国家アメリカの絶対的な庇護(ひご)のもとにあったから成立したと言っていい。親米保守だけでなく、国粋的な反米保守、さらには反米リベラルも、だいたいの日本社会の「思想的存在」は左右問わず、アメリカの許容範囲の内で踊り、苦悩のポーズを見せながら満ち足りていた。それが現実だ。

そしてこのようなモラトリアムじみた状態の安定的維持のためには、政治、特に選挙というものの実質がどこまでも茶番化する必要がある。でないと田中角栄のようにアメリカに睨まれてお仕置きされてしまうからだ。
つまり、日本の生存と安定のためには、「どうせ何も変わらない」的な、親分たるアメリカ合衆国にとってコントロールしやすい政治こそ、永年、最適化されたものだったわけで、本当はそれを踏まえながら日本固有の戦後政治文化を評価しなくてはいけない…はずだ。

しかし、なかなかそうはならない。
アメリカの存在を含めた建前の政治、つまり日本の政治ごっこの「ごっこ」ぶりが明確化してしまうのは、今なおある種のタブーとされている。日本国民がそのことに気づいていながら、気づかないふりをする様は、ナチ体制下、一般ドイツ人がどこまでホロコーストを知っていたのかという問題と似て非なる、「みんな知っていた。しかし、みんな知らなかった」問題という気がする。

その長く重い前提を踏まえた上で、いかに日本の「選挙」とその「政治」への影響を有意義なものに見立てるか、というのはかなり厄介なテーマだが、21世紀に入ってからアメリカが以前ほど日本を重視しなくなり、政治の自律・自立性がこれまで以上に必須となってきたからには不可避なものと言えるだろう。脱・自民党周辺政治の象徴として話題となることが多い日本の新政党が、このあたりで何らか「本物」の手腕を見せるかどうかに、すべてはかかっているのかもしれない。

 

マライ・メントライン
1983年ドイツ北部の港町・キール生まれ。幼い頃より日本に興味を持ち、姫路飾西高校、早稲田大学に留学。ドイツ・ボン大学では日本学を学び、卒業後の2008年から日本で生活を始める。NHK教育テレビの語学講座番組『テレビでドイツ語』に出演したことをきっかけに、翻訳や通訳などの仕事を始める。2015年末からドイツ公共放送の東京支局プロデューサーを務めるほか、テレビ番組へのコメンテーター出演、著述、番組制作と幅広く仕事を展開しており「職業はドイツ人」を自称する。近著に池上彰さん、増田ユリヤさんとの共著『本音で対論! いまどきの「ドイツ」と「日本」』(PHP研究所)がある。
Twitter:@marei_de_pon

 

寄稿:マライ・メントライン
編集:おのれい

 

(注)
本コラムに記載された見解は各ライターの見解であり、BIGLOBEまたはその関連会社、「あしたメディア」の見解ではありません。