ふだん少女マンガに触れない人は、少女マンガを「美男美女によるキラキラした恋愛を夢いっぱいに描くジャンル」だと思ってるんじゃないだろうか。わたしは大学でマンガについて教えているが、初回授業で学生たちに少女マンガのイメージを訊くと、いま書いたような答えが返ってくる。たしかにそういう作品は存在する。そこは認めざるを得ない。
ただ、少女マンガ大陸は、そんなに単調でつまらない場所ではない。外側からは見えにくいのかもしれないけれど、女の子の夢や憧れを描くだけでなく、言いようのない生きづらさに寄り添い、恋愛以外の人間関係についても教えてくれる。けっこう多様性のある大陸なのだ。
しかもこの大陸は、社会の趨勢を反映しながらゆっくりと地殻変動している。とくに近年では、ジェンダーやフェミニズムに対する世間の関心と呼応するようにして、「女として生きるってどういうことなんだろう?」という問いと向き合う作品が増えてきている(過去作品がフェミニズム的視点から再発掘、再注目される動きも当然ある)。というわけで、この原稿では、いくつかの作品を紹介しながら、少女マンガが「人生の参考書」としていかにすばらしいかを書いてみたい。
「女の子だから」で苦しまなくていい
「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない」——牧野あおい『さよならミニスカート』は、そんなキャッチフレーズとともに読者へ送り届けられた作品だ。少女誌である『りぼん』において、少女の夢ではなく、過酷な現実を描き出そうとする試みは、編集長みずから「異例」と認めるほど。読者にも大きなインパクトをもたらした。
主人公の仁那(にな)は、学校でただひとりスラックスの制服を選択している女子生徒。周囲は「高1にして厨二病かよ」などとからかうが、彼女はそんな理由で「女の子であること」から降りようとしているのではない。
かつて人気アイドルだった仁那には、握手会でファンに襲われた過去がある。しかも犯人が逃走しており、再襲撃の可能性はゼロではない。アイドルならば、それぐらいのリスクは承知しておかねばならないのだろうか。全ては「女を売りにしている」ことへの報いなのだろうか。そんなことはないはずなのだが、仁那はその思いを振り払えずにいる。
絶望の淵に立たされた仁那に救いの手を差し伸べようとするのは、同じ高校に通う光(ひかる)だ。彼には、教員からのセクハラがきっかけで引きこもりになった妹がいる。「自分が女だから」セクハラされたのだと自分を責める妹は、仁那たちのグループを知ってから、アイドルは「女の子の自分を許してくれる」ものであり、自分は「女の子でいていいんだ」と思えるようになった。だから光は、仁那にとても感謝している。事件のことも知っていて、なんとか彼女の助けになりたいと思ってもいる。と同時に、自分がただ「男である」というだけで女性にとって脅威となり得ることも、よく理解している。ちなみに、光にそれを教えるのが、女ではなく男の友達なのが新時代到来!という感じがしてとてもよい。
アイドルであるがゆえに、誰かから攻撃されることもあれば、アイドルであるがゆえに、誰かの心を救うこともある。女であるとはどういうことか、推すこと、推されることの本質とはなにか。『さよならミニスカート』を読むと、ひとりの元女性アイドルを通して、芸能の世界はもちろん、この国のジェンダー観を見渡すことができる。エンタメ性をしっかり確保しながらも、社会派の一面も覗かせる作品。ぜひ覚えておいてほしい。
男女の間にあるのは恋愛だけではない
冒頭でも書いたように、少女マンガ=恋愛マンガ、のイメージがあるのは百も承知だが、それをひっくり返してくれる作家がちゃんと存在することも言っておきたい。
女主人公がいい感じの男に出会ったら絶対に恋愛しなくちゃいけないのか、カップル成立ってそんなに大事なことなのか——池辺葵作品を読むたび、そんな考えがむくむくとわき起こってくる。チェーン居酒屋の店員・沼ちゃんが自分のマンションを買う『プリンセスメゾン』でもいいし、祖母の洋装店を継いだ市江(いちえ)の生活を描いた『繕い裁つ人』でもいいのだが、とにかく池辺作品を読むと、カップル成立が男と女の目指すべきゴールではないと分かる。
いずれの作品にも、ヒロインの考えを理解し、生き方を肯定してくれる男性が登場するけれど(そして彼らはたいへん魅力的だけれど)、恋愛的な盛り上がりを目指して突き進むことはせず、彼女たちの「伴走者」として、ただそこにいる。たぶん、ふたりがくっついても文句を言う読者はいない。でも、くっつかない。たしかに愛はあるのだが、燃え上がるような愛ではない。とても静かで、スローな愛だ。
若い人たちの間で「恋愛はコスパが高い」という考えが広まっていることもあり、池辺作品に共感を示す学生は多い。授業で紹介すると、池辺作品が1番好きだと言う学生が一定数いるのだが、彼らは上の世代からの「恋愛しろ」プレッシャーを、かなりウザいと思っている。なんでもかんでも恋愛に結びつける考え方自体が古くなってきていることに、上の世代は気づかないといけない(自戒を込めて)。
おそらく恋愛は「しなくちゃいけないもの」から「したいひとがするもの」へと姿を変えるだろう。人生の必修科目から、選択科目へ。そして池辺作品は、新時代のパートナーシップを考えるためのよいお手本として、この先もいい働きをするに違いない。
女と女の食生活から見るジェンダーの問題
女の生き様を描くのに、男性との恋愛がマストではなくなっている状況は、ゆざきさかおみ『作りたい女と食べたい女』を読んでいても感じられる。
デカ盛り料理を作るのが大好きなOLの野本さんは、あるとき食べきれないほどの料理を作ってしまい、困った挙げ句、隣人の春日さんに声をかける。立派な体躯と胃袋を持つ春日さんは、突然の申し出にもかかわらずこれを快諾。こうしてふたりの作る/食べる関係が成立する。
でも、それだけだと、ただのフードマンガというか、「なにがそんなにすごいの!?」となるだろう。この作品のすごさは、そこにジェンダーの問題が絡んでくるところ。「食べる」という誰もが日常的にやっている行為にも、気づけばジェンダーにまつわるあれこれが絡みついていることを教えてくれるのが『つくたべ』なのだ。
たとえば、デカ盛り料理を作るのが好きなだけなのに同僚男性から「いいお母さんになる」と言われる野本さん。あるいは、定食屋に行ったら断りもなくごはんの量を減らされる春日さん。彼女たちの身に起こるのは、大事件ではない。スルーしようと思えば、できなくもない。でも、ちょっとずつ確実に削られるやつであることが、女性読者ならわかるはず。いや、男性読者も彼女たちを見て思い起こすことがなにかあるんじゃないだろうか。「男なんだからたくさん食べなさい」と言われたり、スイーツ好きなのをなんとなく言い出せなかったり…。
食とジェンダーの問題は、案外根深い。だからこそ、野本さんと春日さんの連帯が頼もしく思える。ふたりで作り、食べる間だけは、誰にも邪魔されず、ただの「人間」でいられる。そのなんと尊いことか!
『つくたべ』は、食を通じた女×女のパートナーシップを描くだけでは終わらない。その後、野本さんがレズビアンであることを自覚する展開を用意しているのだ。異性愛規範に囚われてきた野本さんが、「私は/女の人を好きになっていいんだ/春日さんを/好きになっていいんだ」と気づく瞬間をとても丁寧に描いている。
担当編集者へのインタビューには「ゆざきさんは『レズビアンの人物をレズビアンとして描かないことは、現実にいる女性同性愛者の存在を透明化することに繋がるのではないか』という懸念から、そこは誠実に表明しておきたいと考えていらして」(※1)とある。このことからも、同作がファンタジーではなく、現実を生きるレズビアンの物語であることが分かる。いろんな女のいろんな生き様を描くのに、レズビアンを排除する理由はない。『つくたべ』を読むと、そういう考えが当たり前になる日がすぐそこまで来ているのかもしれないと思える。
少女マンガ大陸には、未来に希望が持てる作品がたくさんある。かつての希望は「好きな人と恋愛・結婚すること」に集中しがちだったかもしれないが、いまは案外そうでもない。もっと違う未来、もっと違う希望がちゃんとある。ふだん少女マンガに触れないひとも、これを機に少女マンガとお近づきになっていただきたい。そして自分にぴったりの「人生の参考書」を見つけだし、なにかと生きづらいこの世の中をどうにか愉快にサバイブしていってほしい。
※1 引用:餅井アンナ 「現実のレズビアンに目を向けたGL作品を『作りたい女と食べたい女』編集者インタビュー」wezzy
https://wezz-y.com/archives/93488
トミヤマユキコ
ライター、マンガ研究者。早稲田大学法学部、同大大学院文学研究科を経て、2019年春から東北芸術工科大学講師。
ライターとして日本の文学、マンガ、フードカルチャーなどについて書く一方、大学ではマンガ研究者としてサブカルチャー関連講義を担当。朝日新聞書評委員、手塚治虫文化賞選考委員。マンガ関係の著書に『少女マンガのブサイク女子考』(左右社)がある。
寄稿:トミヤマユキコ
編集:白鳥菜都