地球環境の危機が深刻化するなか、単なる環境負荷の低減を超えた新たな概念「ネイチャーポジティブ」が国際的に注目されている。これは、自然環境を単に保護するだけでなく、積極的に再生・向上させることを目指す画期的なアプローチである。本記事では、ネイチャーポジティブの概念から、企業における実践事例、そして将来の展望まで、社会変革の最前線で求められる知識を体系的に解説する。
- ネイチャーポジティブの基本概念と背景
- ネイチャーポジティブと企業活動の関係性
- 企業におけるネイチャーポジティブの実践事例
- ネイチャーポジティブ実現に向けた具体的アプローチ
- ネイチャーポジティブ実現における課題と解決策
- ネイチャーポジティブの将来展望と業界動向
- まとめ:ネイチャーポジティブ時代における企業の役割
ネイチャーポジティブの基本概念と背景
ネイチャーポジティブ(Nature Positive)とは、人間活動によって減少や損失が進んだ自然・生態系を回復し、最終的には自然の純増を実現するという考え方である。
従来の環境対策が「これ以上の被害を出さない」という防御的なものだったのに対し、既に失われた自然を取り戻し、プラスの状態に転じさせることを目指している。具体的には、2030年までに生物多様性の損失を食い止め、2050年までに回復軌道にのせるという目標が国際的に掲げられている。
国際的な背景と重要性
ネイチャーポジティブが注目される背景には、地球規模での生物多様性の急速な喪失がある。生物多様性の動向を科学的に評価する政府間組織、IPBES(イプベス)事務局長のアン・ラリゴーデリー博士は、現状のままでは地球上の動植物のうち100万種を超えるもの数十年以内に絶滅する可能性があると警告している。(※1)気候変動対策が「カーボンニュートラル」という明確な目標を持つように、自然保護においても明確な目標設定と進捗測定の枠組みが必要とされている。
特に注目すべきは、2022年12月に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」である。この国際合意では、2030年までに世界の陸域と海域の少なくとも30%を保全する「30by30」目標など、具体的な数値目標が設定された。(※2)こうした国際的な流れを受け、企業にも自然保護・回復への積極的な取り組みが求められている。
※1 参照:BUSINESS INSIDER「近い将来、地球上から100万種の生物がいなくなる? 「生物多様性」が必要な理由」
https://www.businessinsider.jp/article/288630/
※2 参照:環境省「昆明・モントリオール生物多様性枠組み 検討の流れ」
https://www.env.go.jp/council/content/12nature05/000106038.pdf
ネイチャーポジティブと企業活動の関係性
企業活動は自然環境と密接に関わっており、ネイチャーポジティブへの取り組みは経営戦略上重要な意味を持つ。
企業が直面する自然関連リスクと機会
世界経済フォーラムの報告によれば、世界のGDPの半分以上が自然に依存しており、生態系の劣化は直接的な経済リスクとなる。(※3)特に食品・飲料、農業、建設などの産業は自然資本への依存度が高く、
自然の劣化がサプライチェーンの混乱を招く可能性が高い。例えば、ミツバチなどの受粉者の減少は農作物の収穫量に直接影響し、森林破壊は水質や気候の安定性を損なう。
一方で、ネイチャーポジティブな取り組みは新たなビジネスチャンスも生み出す。世界経済フォーラムの試算では、自然に配慮したビジネスモデルへの移行により、2030年までに年間約1,000億ドルの経済価値と約3億9,500万件の雇用が創出される可能性がある。(※3)
TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)の役割
気候変動リスクの開示枠組みであるTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)に続き、2021年にはTNFD(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures:自然関連財務情報開示タスクフォース)が設立された。TNFDは企業に対して、
自然資本への依存度や影響を評価・開示するフレームワークを提供している。(※4)
TNFDの特徴は、自然関連リスクを「物理的リスク」「移行リスク」「システミックリスク」に分類し、それぞれの視点から企業活動を評価する点にある。また、単なるリスク管理だけでなく、自然保全・回復を通じた機会の創出にも焦点を当てている。このフレームワークにより、投資家は企業の自然関連リスク管理能力を評価できるようになり、資金が持続可能な事業モデルへと流れる仕組みが整いつつある。(※4)
※3 参照:世界経済フォーラム「New Nature Economy Report」
https://www.weforum.org/reports/new-nature-economy-report-series/
※4 参照:TNFD公式サイト
https://tnfd.global/
企業におけるネイチャーポジティブの実践事例
先進企業では既にネイチャーポジティブに向けた多様な取り組みが始まっており、業種を超えた広がりを見せている。
サプライチェーン全体での取り組み
ネイチャーポジティブの実現には、自社の直接的な事業活動だけでなく、サプライチェーン全体での取り組みが不可欠である。
例えば、ユニリーバは「持続可能な生活計画」を通じて、パーム油、紙・板紙、大豆、茶、ココアなどの主要農産物について、100%持続可能な調達を目指している。森林破壊ゼロのサプライチェーン構築や、小規模農家の持続可能な農法導入支援などを実施し、生物多様性の保全と収穫量の増加を両立させている。(※5)
地域環境との共生を目指す取り組み
企業の事業所や工場が立地する地域の生態系保全・回復も重要な取り組みとなっている。地域コミュニティや自治体との連携により、地域固有の生態系や希少種の保護活動を推進する例が増えている。
サントリーの「天然水の森」活動は、水源涵養林の保全・育成を目的としたプロジェクトである。単なる植林ではなく、その地域本来の生態系を取り戻すための森づくりを行い、水を育む健全な森を再生している。現在、全国17都道府県に及ぶ約12,000ヘクタールの森林を管理し、同社の工場で使用する水量以上の水を涵養する森を育成するという目標を掲げている。(※6)
コスメティックブランドのロレアルは、「生物多様性プログラム」を通じて原料調達地での生態系保全に取り組んでいる。例えば、インドネシアでのサステナブルなパーム油調達プロジェクトでは、小規模農家と協力して森林破壊を防ぎながら生産性を高める農法を普及させている。(※7)
製品・サービス設計における生態系への配慮
製品やサービスの設計段階から生態系への影響を考慮する取り組みも進んでいる。原材料選択、製造工程、使用時、廃棄・リサイクル時の各段階で、環境負荷を最小化する循環型設計の採用が広がっている。
ネスレは「フォレスト・ポジティブ」戦略を掲げ、2030年までに主要原材料の調達における森林破壊ゼロの達成を目指している。さらに、コーヒーや乳製品などの生産過程における再生農業への移行支援や、包装材の100%リサイクル可能化にも取り組んでいる。(※8)
※5 参照:ユニリーバ「持続可能な生活計画」
https://www.unilever.com/planet-and-society/sustainability-reporting-centre/
※6 参照:サントリー「天然水の森」
https://www.suntory.co.jp/eco/forest/
※7 参照:ロレアル「2030年に向けたロレアルのサステナビリティ・コミットメント」
https://www.loreal.com/-/media/project/loreal/brand-sites/corp/master/lcorp/7-local-country-folder/japan/documents/pdf/sustainability-commitements/forthefuture-j.pdf?rev=3f0b2a7695f44f68b9a8a0b6faf24188&hash=694BF71582E7A8CB5D3365A75BE302A3
※8 参照:ネスレ「フォレスト・ポジティブ戦略|サステナビリティ」
https://www.nestle.co.jp/csv/impact/nature-environment/forest-positive
ネイチャーポジティブ実現に向けた具体的アプローチ
ネイチャーポジティブへの取り組みを効果的に実施するためには、体系的なアプローチが必要となる。
自然資本インパクトの可視化と測定
ネイチャーポジティブの実現において最初のステップは、企業活動が自然環境に与える影響を正確に把握することである。科学的根拠に基づいた測定法を用いて、自然資本への依存度と影響を評価する必要がある。
例えば、自然資本プロトコル(Natural Capital Protocol)は、企業が自然資本に関連するリスクと機会を特定・測定・評価するためのフレームワークを提供している。これにより、土地利用変化、水使用量、大気・水質・土壌汚染、廃棄物発生量などの指標を用いて自然資本への影響を定量化することが可能となる。(※9)
さらに、科学的根拠に基づく目標設定イニシアチブ(Science Based Targets Network: SBTN)は、パリ協定と同様の考え方で、企業が地球の限界内で事業を行うための具体的な目標設定方法を開発している。これにより、気候変動だけでなく、生物多様性、淡水、土地、海洋といった自然システム全体に対する科学的根拠に基づいた目標設定が可能になる。(※10)
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社内体制の整備と人材育成
ネイチャーポジティブの実現には、組織全体の関与と適切なガバナンス体制の構築が不可欠である。経営層のコミットメントから現場レベルの実行力まで、一貫した取り組みが求められる。
理想的な組織体制をつくるためには、経営層レベルでの明確な責任所在(サステナビリティ担当役員の設置など)、部門横断的なワーキンググループの設置、自然資本関連の目標を組み込んだ評価・報酬制度、従業員向けの教育・啓発プログラムの実施などが有効だ。
特に従業員の理解と参画を促進するために、自然資本や生物多様性に関する基礎知識の共有から始め、徐々に実務への応用を進めるステップアップ型の人材育成が効果的だとされている。
ステークホルダーとの協働
ネイチャーポジティブの取り組みは、単独企業の努力だけでは限界がある。サプライヤー、顧客、地域社会、NPO、政府機関など多様なステークホルダーとの協働が不可欠である。
地域レベルでは、企業と地元NGOや自治体が連携した取り組みも効果的である。例えば、複数の企業が共同で流域保全プロジェクトに資金提供したり、技術サポートを行ったりするケースが増えている。こうした協働は、個別企業の取り組みよりも大きな影響力を持ち、効率的なリソース活用にもつながる。
※9 参照:Natural Capital Coalition
https://capitalscoalition.org/capitals-approach/natural-capital-protocol/
※10 参照:Science Based Targets Network
https://sciencebasedtargetsnetwork.org/
ネイチャーポジティブ実現における課題と解決策
ネイチャーポジティブの実現に向けては、課題を理解して適切に対処することが鍵となる。
測定と評価の難しさ
ネイチャーポジティブの進捗を測定・評価することは、気候変動対策におけるCO2排出量の測定と比較して格段に複雑である。生物多様性や生態系サービスは地域性が高く、標準化された測定手法の確立が難しいという課題がある。
この課題に対処するため、国際的な取り組みとして「科学に基づく目標ネットワーク(SBTN)」や「グローバル生物多様性フレームワーク」などが開発されている。これらのフレームワークは、企業が自然への影響を測定・評価するための指標や方法論を提供している。
また、企業レベルでは、以下のような対応が有効である。
- まずは自社事業に最も関連の深い自然環境要素(水、土壌、森林など)に焦点を絞り、測定を始める
- 既存の環境モニタリングシステムを活用しつつ、新たな指標を段階的に追加する
- 地域のNGOや研究機関と連携し、地域特性に合った測定方法を開発する
- デジタル技術(衛星画像、センサー、AI解析など)を活用して効率的なモニタリングを実施する
短期的コストと長期的リターンのバランス
ネイチャーポジティブへの投資は、短期的には追加コストとなるが、長期的にはさまざまなメリットをもたらす。しかし、四半期ごとの業績評価を重視する企業文化の中で、長期的な自然資本投資の正当化が難しいケースも多い。
この課題を克服するためには、以下のアプローチが効果的である。
- 自然資本の経済的価値を定量化し、長期的なコスト削減効果や収益機会を明示する
- 段階的な投資計画を立て、早期に成果が見込める取り組みから着手する
- ESG投資家やグリーンファイナンス機関と連携し、資金調達コストの低減を図る
- 経営幹部の評価指標に自然資本関連の長期目標達成度を組み込む
例えば、PepsiCoは「Positive Agriculture」イニシアチブを通じて、再生型農業に投資することで長期的なサプライチェーンの安定化とコスト削減を実現している。初期投資は大きいものの、土壌の健全化による収量増加や気候変動リスクの低減など、長期的なリターンが期待できる取り組みとなっている。(※11)
業種・規模による取り組みの差異
ネイチャーポジティブへのアプローチは、業種や企業規模によって大きく異なる。特に中小企業は、専門知識や資源の制約から、大企業と同様の取り組みを実施することが難しい場合がある。
業種別のアプローチとしては、以下のような特性を考慮する必要がある。
- 一次産業(農林水産業):直接的な土地・水資源利用が中心であり、生態系保全と生産性向上の両立が課題
- 製造業:原材料調達と生産工程における環境負荷低減が重要
- 小売・サービス業:サプライチェーン管理と消費者コミュニケーションが鍵
- 金融業:投融資先の自然資本リスク評価と、ポジティブインパクト創出への資金誘導が主な役割
中小企業向けの解決策としては、業界団体やサプライチェーン上の大企業が提供する支援プログラムの活用や地域レベルでの協働イニシアチブへの参加、政府や自治体による中小企業向け環境対策補助金の活用などが挙げられる。
※11 参照:PepsiCo「Positive Agriculture」
https://www.pepsico.com/our-impact/esg-topics-a-z/agriculture
ネイチャーポジティブの将来展望と業界動向
ネイチャーポジティブは、単なる一時的なトレンドではなく、今後の企業活動における中核的な考え方となっていく可能性が高い。
政策・規制の動向
世界各国で環境規制が強化される中、EUを筆頭にネイチャーポジティブに関連する法的要件の義務化が進みつつある。
EUの「サプライチェーンデューデリジェンス指令」は、企業に対してサプライチェーン上の環境・人権リスクの特定と対処を義務付けるものである。また、「欧州グリーンディール」の一環として、生物多様性戦略や循環型経済行動計画なども策定されている。これらは直接的に企業の自然資本への影響を規制する枠組みとなっている。(※12)
日本においても、2020年に策定された「生物多様性国家戦略」において、企業の生物多様性への取り組みを促進する施策が盛り込まれている。さらに、TNFDの枠組みに基づく情報開示の義務化も視野に入れた検討が進められている。
こうした政策動向に先んじて対応することで、企業は将来的な規制リスクを低減し、競争優位性を確保することができる。特に欧州市場に製品を輸出する企業は、早期の対応が求められるだろう。
新たなビジネスモデルの創出
ネイチャーポジティブの考え方は、従来のビジネスモデルを変革し、新たな市場機会の創出につながる可能性がある。自然環境の保全・回復自体が新たなビジネスとなるケースも増えている。
例えば、以下のような新たなビジネスモデルが台頭している。
- 再生農業によって生産された付加価値の高い農産物の流通・販売
- 森林保全や湿地回復などによって創出される炭素クレジットの取引
- 生物多様性オフセットやネイチャークレジットなどの環境金融商品
- バイオミミクリー(生物模倣)を活用した革新的な製品開発
- 環境DNA解析などを用いた生態系モニタリングサービス
こうした新しいビジネスモデルは、自然保全と経済的リターンを両立させる「ネイチャーポジティブ・エコノミー」の基盤となる。特に、デジタル技術と組み合わせることで、効率的かつ透明性の高い自然資本管理が可能になると期待されている。
投資家・消費者の意識変化
投資家や消費者の間でも、企業の環境への取り組みを重視する傾向が強まっている。特に若い世代を中心に、持続可能性を重視した購買・投資行動が一般化しつつある。
投資分野では、従来の「ESG投資」に加え、より積極的に自然環境へのポジティブな影響を評価する「インパクト投資」が拡大している。具体的には、世界最大級の資産運用会社であるブラックロックやバンガードなどが、投資先企業に対して自然資本リスクの管理を強く求めるようになっている。
また、消費者層においても環境配慮型製品への支持が高まっている。2022年のアクセンチュアの調査によれば、世界の消費者の約60%が「環境に配慮した製品に対してはプレミアム価格を支払う意向がある」と回答している。特に、製品のライフサイクル全体における環境影響の透明性が求められるようになっている。(※13)
こうした投資家・消費者の意識変化は、企業にとってネイチャーポジティブへの取り組みを加速させる重要な動機となっている。自然環境への配慮が、単なるコスト要因ではなく、ブランド価値向上や消費者ロイヤルティ獲得の鍵となる時代が到来したといえるだろう。
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※12 参照:欧州委員会「EU生物多様性戦略2030」
https://ec.europa.eu/environment/strategy/biodiversity-strategy-2030_en
※13 参照:アクセンチュア「Life Reimagined: Mapping the motivations that matter for today's consumers」
https://www.accenture.com/us-en/insights/strategy/reimagined-consumer-expectations
まとめ:ネイチャーポジティブ時代における企業の役割
ネイチャーポジティブは、企業が自然との関係性を根本から見直し、環境負荷の最小化から生態系の積極的な再生へと視点を転換する重要なパラダイムシフトである。この概念は国際的な環境ガバナンスの流れに沿ったものであり、今後ますます企業経営の中核に位置づけられていくだろう。
特に若い世代が社会的役割を担うなか、持続可能な事業活動のための具体的行動が求められている。ネイチャーポジティブへの取り組みは一朝一夕に実現するものではないが、明確なビジョンと段階的なアプローチを通じて、企業は自然資本の保全と事業成長の両立を図ることができる。自然と共生する新たなビジネスモデルへの転換は、企業の長期的な競争力と社会的価値の向上につながる重要な経営戦略となるだろう。
文・編集:あしたメディア編集部
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