
第78回ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した三宅唱監督の最新作『旅と日々』は、つげ義春のマンガ「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を原作に、夏と冬、2つの季節を通じて人と人との出会いを描いた作品だ。前作『夜明けのすべて』で社会的なテーマを正面から扱った三宅監督が、今作で向き合ったのは、映画そのものが持つ純粋な「驚き」の力だった。
風が吹く、波が寄せる、雲が動く――そんな当たり前の現象を、カメラを通して初めて発見するかのような新鮮さで捉え直す。社会性が前景化しがちな現代の映画表現において、本作は映画本来の豊かさや面白さを問いかける試みとしても注目される。
社会を前進させる情報発信を行う「あしたメディア by BIGLOBE」では、三宅唱監督にこの作品に込めた思いと映画観について、映画解説者・中井圭との対談形式でお届けする。

強い日差しが注ぎ込む夏の海。ビーチが似合わない男が、陰のある女に出会い、ただ時を過ごす―。脚本家の李は行き詰まりを感じ、旅に出る。冬、李は雪の重みで今にも落ちてしまいそうなおんぼろ宿でものぐさな宿主、べん造と出会う。暖房もなく、布団も自分で敷く始末。ある夜、べん造は李を夜の雪の原へと連れ出すのだった…。
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11月7日(金)TOHOシネマズ シャンテ、テアトル新宿ほか全国ロードショー
監督・脚本:三宅唱
出演:シム・ウンギョン、堤真一、河合優実、髙田万作
原作:つげ義春「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」
製作:映画『旅と日々』製作委員会
製作幹事:ビターズ・エンド、カルチュア・エンタテインメント
企画・プロデュース:セディックインターナショナル
制作プロダクション:ザフール
配給・宣伝:ビターズ・エンド
© 2025『旅と日々』製作委員会
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夏と冬を1本の映画で味わうワクワク感
中井:つげ義春さんの原作から「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を選んで組み合わせて、ひとつの映画にした理由を教えてください。
三宅:率直に好きなマンガなんです。そして、夏と冬が1枚のポスターに写っていたら、ぼくだったらいち観客としてきっと気になるな、と。夏と冬を1本の映画で味わえる、きっと新しい映画体験になるんじゃないかという予感、ワクワク感が出発点でした。
中井:夏と冬をはじめとして、対比が効いていると感じました。
三宅:サウナみたい、と友達が言ってました。ただ、細かいところに関しては、最初から意識的に対比を設計して作ったわけではないんです。まず夏パートの撮影があって、冬パートまで半年ほどまた準備できる期間があって、その間にシナリオのリライトをしたり、夏の反省点や達成点を受けて冬の撮影にどう臨むかなど、じっくり考えることができたんです。この映画にはその半年分の時間が詰まっていることで、違いが生まれた気がします。
中井:夏は、波が押し寄せ風も吹いていて、画面の中に動きがあります。一方、冬は、暗度が高まり、雪が音を吸収して静けさがある。画面の中の対比も大きい印象でした。
三宅:波や風に驚けるような映画にしたいという話は、撮影の月永雄太さんはじめスタッフと共有していました。この映画には、雪を初めて目にするときの驚きや気持ちよさがあると思うんですが、冬だけの映画だったらそうはいかない気がします。まず夏を目にして、1本の映画の中で冬がやってくるからなんじゃないか、と。静けさも、ずっと静かだったらそうは意識もしないはずなので、コントラストが驚きを生むんだと思います。普段は意識しないけれど気がついたら面白いということは、たくさん転がっていると思うんですよね。それを見逃していたことに映画の中で気づく、そして発見して驚く、それが、映画をみる喜びとか実感になっていく気がします。美味しそう、とか。

「何も起きない」映画で、すべてが起きている
中井:通常、映画において物語の転換が生まれたり、激しいアクションがあるところなどに、観客は意識を引っ張られる傾向があると思います。しかし、今回の映画では、そういった目を強く引くような大きなことは起きていないけど、細やかなことに人間の心や視聴覚が反応してドキドキする、ということを再確認できたのは、面白かったですね。
三宅:これまで自分が撮ってきた映画は、どれも「何も起きてないけど面白い」と言われがちで、半分は嬉しいんですが、もう半分は、「いや、めちゃめちゃずっと(何かが)起きているんだけどね」とは思うんです(笑)。
中井:なるほど(笑)。
三宅:だから、今度こそ「何も起きてない」なんて言わせないぐらい、映画の中の色々なものに驚けるような映画にできれば、と思っていました。「雲が動いてる」、ただそれだけなのになんだか面白い、そういう気づきが積み重なっていけば、「なんか面白いもん見た!見たことのないものを見た!」という手応えにつながるんじゃないか、と。

中井:今回の作品は、画面と内容のギャップも面白かったんです。前半の「海辺の叙景」部分では、見知らぬ男女が海辺で出会って他愛もなく戯れる話です。だけど、画面の中では男女が大雨が降る荒れた海の不穏さの中を泳いでいる。一方、後半の「ほんやら洞のべんさん」部分は、別の見知らぬ人々が他人の家に忍び込む不穏さがあるのに、彼らの会話にはユーモアとか温かみがある。そういったギャップをそれぞれ持ちながら映画が進行していくのがすごく面白かったですね。
三宅:それがつげさんのマンガの面白さですよね。悲しいはずなのに笑いがあったり、楽しいと思われるところに悲しみがある。この感覚は、自分自身の人生でも実際に感じてきたことです。それを映画で表現するのはすごく難しいですが、アキ・カウリスマキのような映画もありますし。
今回の作品は、その面白さに挑戦できる機会でした。夏編は、不運な2人ですよね。せっかく海で待ち合わせして一張羅のアロハシャツを着ていったのに、大雨が降ってしまう。当事者からすれば悲哀がありますが、側からみれば健気でなんだか愛おしいし、その感じが映画の面白さになるんじゃないかと。

社会性と映画の純粋な面白さ
中井:少し話は変わりますが、近年、社会性が顕著に先行する作品が多いと感じています。それ自体は重要なことだと思いますが、その結果、そもそも映画とは何なのか、面白いとは何なのか、という認識が揺らいできている感覚があります。多くの映画で描かれる社会性自体に強い正当性があるため、映画そのものの良し悪しが問われづらい状況になっているのではないかと思います。
三宅:そうかもしれませんね。
中井:忌憚なく言うと、映画の中の社会性が前景化した結果、他にも備わっている映画の豊かさや面白さが相対的に後景化している状況を観る側が適切に評価できているのかと、いち観客として自問することが増えました。その意味で、今回の『旅と日々』は、もちろん社会性が薄いとは思わないけど、元来、映画に備わっている面白さが明らかになったという印象があります。
三宅:おっしゃる通り、この映画でそれをやりたいと思っていました。純粋に、自分自身が映画にもう一度驚きたいと思ってますし、映画を観て「わっ」て驚く瞬間、言葉を失うような感覚をどれだけ作り出せるか。結局、それが映画にできることだと思うんです。

中井:本作で何度も映し出される自然が、そこに関係してますか。
三宅:明確に関係していると思います。元々僕は、風景を見て「綺麗だなあ」と思えるような目は持ってないですし、写真も普段撮ったりしていなかったので。ただ、映画を真剣に見たり撮るようになってから、世の中の見え方が変わっていきました。人間ドラマを撮る以外の面白さも映画にはあることを、映画を作っていく中で学んできました。つげさんのマンガも、風景の描き込みが尋常ならざるパワーのあるもので、今回、そこに大いに刺激を受けました。
中井:夏と冬の撮影面において、映画の面白さを感じましたか。
三宅:夏と冬、どっちも大変で、「夏も冬も当分いいや」と思うぐらい味わいました(笑)。でも、それほどの画が映ったと思います。撮れてよかったと思う瞬間がたくさんありますね。夏で言えば、すごい風が突然吹くとか、陽がゆっくり沈んでいく、地球が自転していくあの時間とか。実現できるか分からなかった雨の海を泳ぐシーンも、後半の夜の雪の中を歩いていく遠景も、スタッフの美しい仕事の賜物だと思います。

カメラを通して初めて驚けるもの——映画の原初的な力
中井:三宅さんは最高賞である金豹賞を受賞したロカルノ国際映画祭で、本作について、前半部分の「初期映画の記録性」と後半部分の「古典的なアメリカ映画とそれに連なる日本映画」、という言葉を発していました。ぼくは「初期映画の記録性」とは、因果関係から立ち上がる物語ではなくて、カメラの前で起こることをただ捉えていくことだと解釈したのですが、三宅さんが考える「初期映画の記録性」を教えてください。
三宅:リュミエール兄弟の作品に『海水浴』(1895年)という短編があります。海辺で若者たちが海に飛び込んでいくだけなのですが、その波の動きだけでめちゃめちゃ面白くてずっと見ていられる。その面白さは、映画史の知識として学んだというより、自分の生活での実感があるからだと思います。
海の広さやコンサートの面白さってなかなかカメラには映らなくて、実際に身体で体験しないと分からないことってありますよね。一方、もし自分がその場にいたとしても、自分の目では分からないこともあると思うんです。誰かがフレームに切り取ってくれたからこそ見えるもの、カメラが撮ってくれたから発見できるものっていうのは、たくさんあると思います。

三宅:初期映画ではないですが、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1954年)における、ポンペイの遺跡にただよう死の臭いや、長大な時間の流れのようなものを、仮にその場に自分が立ったとしても映画と同じように感じられるかというと、多分難しい。あの物語、あの演出、あのフレーミングがあって初めて、映画だからこそ観ることができる気がします。
ロカルノでは初期映画と限定して喋りましたが、ぼくが言いたかったことは「映画が持っている記録性」というより、「カメラを通して初めて驚けるもの」ということです。自分でたまにカメラを回しても、生身で見て気づかなかったことがたくさん映っています。本当に無数の記号が映っているので、映画ではそれらをどう扱うのかが大事だと思います。

中井:もうひとつの「古典的なアメリカ映画とそれに連なる日本映画」をぼくが解釈したのは、キャラクターが存在し、そこに因果関係が発生して物語が立ち上がっていく、ということなのかと思いましたが、三宅さんはどう捉えていたのでしょうか。
三宅:夏は「叙景」ですから、場面それぞれが独立して輝けばいい、という緩やかなつながりですが、冬は、主人公が脚本家なので、因果関係、話のオチまで書こうと思っていました。
それに、この映画は、夏と冬の話の2つというより、もっとたくさんの小さな物語があって、ひとつの映画になっているんじゃないかとも感じています。夏編では河合優実さん演じる渚が資料館で写真を目にしますが、あの写真1枚ごとに物語の始まりがある。物語の種や芽ですよね。そういうものが積み重なって、後半ではその種を育てていくような感じかな、と。

スタンダードサイズで捉える世界の広がり
中井:本作の画面は、スタンダードでした。夏も冬も風景を重視して撮っていた印象ですが、あえて画面幅の狭いスタンダードにした理由はなぜですか。
三宅:まず、スタンダードは美しいと思います。シネマスコープになると2倍ぐらい広くなりますが、それでも結局、フレームの外側の方がずっと広いんです。映画にとって重要なのは、フレームの外側をどれだけ想像させるか。それによって、世界の広がりを感じ取れるんじゃないかな、というのが今回の発見であり、実践でした。
スタンダードを上手く使うことができれば、世界の広がりはきっと充分に感じられる。場合によってはシネスコより感じやすいかもしれない、と思いました。この映画の主題のひとつが風景だからこそ、スタンダードに挑戦したところもありますね。
中井:前半では、スタンダードだけどスーパーロングの俯瞰で、人と風景を撮っているシーンが出てきます。後半は、横から抜いたロングショットで、雪の中の西部劇みたいだと思いました。
三宅:今回は東京の街中ではなく島や雪原で撮るわけで、ロングショットでどこまで行けるかな、とはロケハン前からワクワクしていました。ただ、重要なのは前後にどういうショットと組み合わせるかだと思います。それを考えながら、つまり、一枚絵で考えるのではなくて、前後の画面連鎖をある程度想定しながら、計画していきました。

計算された色彩設計
中井:映画を取り巻く色についても伺いたいです。前半は、青が連なり続けます。海はもちろん、河合さんの衣装もそうですし、車のフロントガラスに映る空も青い。一方、後半は白と暗色で構成されています。
三宅:夏編は、まず「海を撮るぞ」という意識が強くありました。それに、晴れも明確に感じさせたかった。それらがあるから、雨が降る中の波の怖さが感じられるのではないか、と。「序盤は絶対晴れで撮りたい!」とスタッフとも共有していました。
冬編は、雪が白いことに驚くため、あるいは夜の暗さや雪夜のぼんやりとした明るさに気づいて驚くために、色味をコントロールする必要があります。そして、金色の鯉にも「おお、金色だあ」となってほしい。なので、今回の色彩は、いままでの作品より事前に細かく話していた記憶がありますね。

つげ義春とカメラ——写真から言葉への旅
中井:原作にない部分として、主人公の脚本家が思わぬ形でカメラを入手し、そのカメラで撮影することも描いていますね。
三宅:つげさんご自身が写真家として貴重な写真を撮られていて、カメラのコレクターでもあったことを脚本に反映させてもらいました。ぼくはつげさんの写真がすごく好きなんですが、ただ、ある本を読むと、つげさん曰く「写真を撮ってもどうも違う」と。そこで、写真をもとに絵を描かれている。その絵を見ると、すごいんです。確かに、写真もすごいのに、写真よりももっと伝わってくるものがありました。それで、カメラは重要ではあるけれど、一番重要なわけではない、そういうものとして描こうと思いました。
この映画で出てくるカメラは、亡くなった教授から譲り渡されたものなので、それだけを取り出せば「継承の物語」として受け取られるかもしれません。でも、そういうことは考えていませんでした。
前半はカメラを通じて「何かを見る」ことが重要でしたが、後半では、カメラを手放して、その次に「何をする」のかを描いています。

短い出会いに宿る普遍性
中井:短い出会いを連ねて描くことで作品を面白くするのは、難しいですよね。この作品で描かれている繊細な機微は、必ずしも前作『夜明けのすべて』のような万人にとって共感性の高い表現ではない可能性があります。その難易度とどう向き合いましたか。
三宅:『夜明けのすべて』も、その前作の『ケイコ 目を澄ませて』も、主人公たちは僕にとって共感性が高いわけではなくて、自分とは全然違う他人だ、というのがスタート地点でした。今回に関しても、ぼくはつげさんのマンガの魅力を最初からすべて分かっていたわけではありません。
これまで観てきた好きな映画のあらすじを読み返してみると、とんでもなくひどい話や、自分とはまったく関係のない話だったりします。でも、あらすじ上はただの不倫の話みたいに見えるものが、映画になるととんでもなく面白かったりするわけです。だから、この映画を作るにあたって、自分がこのマンガを面白いと思ったことに素直に、ただ熱中し続けることが大事だったと思います。「これが面白いんですよ」と説明せずとも、面白いと思ったことを真面目に撮れば、必ず観てくださる方にも分かるものになる。そのロジックを簡単に説明はできないけど、肌感覚として大丈夫じゃないかなと思っていました。
中井:前作『夜明けのすべて』は、扱う題材の社会性が高く、外部化されていました。それゆえに誰にとっても言語化がしやすいものだったと思います。一方、今回の『旅と日々』は、社会性よりも個々の内面性が顕著にあらわれる印象です。
三宅:そうですね。でも、原作を南米の少年や南アフリカのおばあさんが読んだとして、「これ、自分の話だ」と思う可能性、そういう普遍性は間違いなくあると思います。それが何か、前作の明確な社会性とは違うけれど、きっと届くものになると思っています。それを急いで言語化しなくたってもいい、というのも、この映画の中にあると思います。言語化するよりも、言葉になる前の「うわー!」という感じが一番大事で。そこに一旦留まってから、言葉にちょっと抗ってから、いずれ、誰のためでもない言葉、つまり共有を目的にしない言葉、自分にしっくりくる言葉に出会えればいいのでは、と。僕にとっても、この映画の脚本作業や撮影作業は、長い時間がかかりましたが、最終的にははじめには思いもしなかったところに辿り着いた気がします。

シム・ウンギョンという「悩めるストレンジャー」
中井:最後に伺いたいのは、今回、シム・ウンギョンさんについてです。彼女を主演に起用されました。彼女の役、脚本家の李は「悩めるストレンジャー」でした。彼女を通じて託したものや表現したかったことはありますか。
三宅:「悩めるストレンジャー」とおっしゃられたその単語だけでも、本当に興味深い人間像だと思います。ぼくがシム・ウンギョンさんに感じた魅力も、もしかしたらそういう部分にあるのかもしれません。
ぼく自身も、何かに属しているとか、ここが自分の場所だと思うことはそんなにない。むしろ、そう感じないほうが不思議と居心地が良いときすらあります。東京で言えば、ここが自分の町だと思わないからこそ、この場所にいられると感じる。そういうストレンジャーの感覚は自分にもあったと思います。
そして、シム・ウンギョンさんという人間は面白い人に違いない、こんな人に会ったことない、もっと知ってみたいと強く思っていたので、この映画でそれを撮ることができればいいな、というのが大きいです。映画の中で彼女に何かをやってほしいというよりは、一緒に働いて魅力に驚きたい、と思っていました。

今回のインタビューを通じて浮かび上がってきたのは、三宅唱監督の静かな挑戦状だった。「何も起きていない映画」という見立てへの反論として、監督は風の動きひとつ、波の音ひとつに宿る豊かなドラマを提示してみせる。
リュミエール兄弟の『海水浴』から映画史を振り返りながら、現代においてカメラが何を映し、観客が何に驚くことができるのか。その問いへの一つの答えが、この『旅と日々』には込められている。
ロカルノ国際映画祭での最高賞受賞は、この挑戦が世界に通じることを証明した。しかし何より重要なのは、この作品が私たち一人一人に、映画を観るという行為の豊かさを改めて気づかせてくれることだろう。つげ義春のマンガが持つ普遍性のように、「悩めるストレンジャー」の物語は、国境や時代を超えて、観る者の内面に静かに響いていく。
取材・文:中井圭(映画解説者)
編集:大沼芙実子
写真:新家菜々子
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