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「“言語化”から漏れることばの価値」永井玲衣さんと考えてみる

昨今、SNSやマスメディアで目にする機会が増えた「言語化」。「なぜ『国宝』が流行ったのか?」「サッカー日本代表が強い理由」など、なんとなくは分かっているが明確に説明できないことを紐解き、答えのようなものを導くその過程を楽しんでいる人も多いはずだ。

もちろん、言語化すること自体は悪いことではない。だが一方で、言語化ばかりを求めてしまうなかで、分かりづらく、伝わりづらい、“言語化”では使われない言葉たちを見落としてしまっているのではないだろうか。

そこで、今回あしたメディアでは、哲学対話を各地で行い、ことばに関する文章も執筆する永井玲衣さんに、「言語化ブームから漏れることばの価値」をテーマに話を伺った。

言語化は「言葉を使いこなしている」という感覚に近いのかもしれない

昨今の言語化があらゆる場で求められる状況を、永井さんはどのように見ていますか。

私は対話の場を作っており、対話は“言語化”していく場だと思われがちなんですけど、実は“言語化”ということばがあまり好きじゃないんです。

対話の話をすると、よく「そこではどんな話をしましたか?」「どんな新しい提案がありましたか?」と中身を聞かれることが多いんですね。こうした関心って、いまの言語化ブームと地続きにあると思っています。

でも実際の対話では、話の内容それ自体よりも、人が一生懸命にことばを探していく過程で発することばや身振りや、そこに流れる時間そのものが大事です。その手触りを互いに感じ合えたり、その空気に巻き込まれたりするところに、リアルな場の対話の良さがあると思うんです。

なので、「対話=言語化の練習ができる場所」と思われると若干誤解があって、それ以外のことも起こっているんだよ、ということは伝えたいですね。

“言語化”ということばがあまり好きではないとのお話でしたが、言語化に対して「気持ちいいな」と思う瞬間や、魅力的に感じる瞬間はないのでしょうか。

言語化とは少し話がそれるかもしれませんが、「ことばを獲得していく」過程そのものは、とても面白いと思っています。

たとえば、歴史を振り返ると、長いあいだ“公共の場”に女性は含まれていませんでした。抑圧された女性たちは、そもそも言葉を交わし合うことすら許されなかったんです。そうしたなかでフェミニストたちは独自に対話の場をつくり、場を通して少しずつことばを獲得していきました。女性たちが集まって日常で感じる違和感などを語りに起こし、問題を把握し、言葉を獲得していった歴史があるんです。

このようなことは現代でも見られます。たとえば「セクハラ」もそうですよね。いまは「〇〇ハラ」という風に粗雑に扱われてしまっている部分があるような気もしますけど、「セクシュアルハラスメント」という言葉を丁寧に耕してきたから、その違和感を表現することができる。

また、ことばを獲得することは同時に、社会の構造に触れることでもあります。個人だけで抱え込んでいると「これって私だけなのかな?」と思ってしまう悩みや違和感も、誰かと話すことで「これは構造の問題なんだ」と理解できる。より広い視野を持てたり、根本にあるものに気づけたりするんですよね。

これらを言語化と呼ぶのかは分かりませんが、このような「ことばが生まれてくるという丁寧なプロセス」には喜びを感じます。

いま永井さんがお話しされたことは、いまSNSや社会で流布している“言語化”とは、意味合いもその過程も違っているように感じました。

いわゆる「考察して気持ちいい」みたいなのは、多くの人の中にあることだと思いますよ。 「140文字にうまく収めれた!」とかも似たような気持ちかなと思いますし。

ただ、いま世間で言われてる言語化は、「一人でことばを考えてうまくバズれた!」みたいなニュアンスが強いと思うので、誰かとの対話の中でゆっくり育てることばとはちょっと違いますよね。

喉越しの良いフレーズが見つかったとか、人に刺さりやすいことばが作れた、というのは、その瞬間はことばが光って見えるけれど、本当に自分に馴染んだことばかどうかは別問題だと思うんです。どちらかというと、ことばを“獲得している”というより、“使いこなしている”に近い感覚なのかもしれませんね。

昨今の言語化は、ことばを使った正解当てゲームのような感じ?

SNSを中心に、“強く分かりやすいことば”が可視化されやすい状況だと感じています。ただし、ことばはそれだけではありませんし、言語化において選ばれないようなことばや言語化に不向きな表現にもきっと価値はあると思うんです。永井さんはこの点についてどのようにお考えでしょうか。

私は詩が大好きなのですが、詩人というのは「言葉ですべてを表現することはできない」という不可能性を分かったうえで、ことばでの表現を試みる人たちだと思ってるんですね。ただ、昨今の“言語化”は、その不可能性から出発している感じがあまりしなくて。どちらかというと、ことばを使った正解当てゲームのようにも見えるんです。

たしかに、この現象にはこの言葉を、こういうときにはあの言葉を…と答え合わせのように当てはめてしまう瞬間があるかもしれません。

あと、「ことばだけが一人で走ってしまっているような現象」もありそうです。

たとえば、誰かが何かの現象について「それが家父長制ということです」と物事を丁寧に分析し理論化したとします。そのことばが使われ広まっていくうちに、「これも家父長制」「あれも家父長制」となんでもかんでも「家父長制」でまとめてしまって、次第にそのことばありきで物事を見るようになってしまう。わたしも陥りがちです。

ことばの一人歩きを起こさないためには「そもそもどういう意味だったっけ?」と、みんなでことばを丁寧に触り直す時間が必要だと思います。そのプロセスを飛ばして、ことばをどれだけ「うまく」扱えるかだけにフォーカスが当たってしまうと、ことばと自分も、ことばと社会も、すれ違ってしまいますよね。

ことばが持つ意味や使われ方をもう少し模索するべき段階なのかもしれませんね。

ことばを問い直すことは、一人でやらなくてもいいのになと思いますね。「言語化しましょう」が、いかに一人でスキルを蓄えるかっていうことになってしまうと切ない。一方、対話は「このことばって何なんだっけ?」という問いをみんなで協力して探す営みです。

対話の場は誰しもが丸腰だし、あらかじめ考えていたことを交換するわけでもありません。誰かの語りがあるから自分のことばが生まれる、その積み重ねのなかで進んでいくんです。だからなのか、対話の場では「自分のオリジナルの意見を言えたぞ」という感覚があまり残らないんですよ。

いわゆるアイデア出しのような場であれば、「これ私のアイデア!」となりそうなところです。

©みたいな感覚ですよね。でも不思議なことに、対話では「わたしの手柄!」という気分がほとんど起きないんです。

以前、黒鳥社の若林恵さんが、私の哲学対話を見て「みんなでもんじゃ作ってるみたいだな」と言ってくれたんですね。もんじゃ焼きってみんなで作るけど、「そこは私が食べるところ!」「私の天かすなのに!」みたいなことがあまり起こらないですよね。若林さんはいい例えをしてくれたなと思います。

対話は社会を善くしているんですか?

永井さんは全国津々浦々で対話の場を作り続けていますが、対話が社会を善くしている、もしくは対話が社会を善くすることに寄与していると思いますか?

間違いなく善くしていると思いますね。むしろ善くしたいと思っているから、対話の場を人びとと一緒につくりたいのかもしれません。というのも、いまの社会って、ゆっくりと互いの声を最後まで聞く場があまりに少ないと思うんです。

少し抽象的な言い方をしますが、わたしは対話の場を「非人間化に抵抗すること」だと思っています。以前、ある会社で哲学対話を行ったあと、参加した社員の方が「部長って人間だったんだ」と言ったんです。裏を返せば、「それまで部長は人間に思えていなかった」ということですよね。これってすごく怖いことじゃないですか。

この話に限ったことではないですが、私たちは互いを非人間化して生きているんですよね。個々人にグラデーションはあると思いますが、身近にいる誰かを役職や役割などの記号で見てしまっていることが多い。それぞれが抱える両義性や、弱さ、たくましさだってあるはずなのに、「誰しも一人の命なんだ」ということを考えないで生きているんです。

非人間化を繰り返すあまり、目の前の人を“人”とは思えなくなってしまっていると。

そうなんです。そして、この「非人間化」のグラデーションの一番端にあるのが虐殺だと思うんですよね。人は簡単には人を殺すことができないので、兵士たちは「いかに人を非人間化するか」を学ぶとよく言われます。あるいは自分自身を非人間化するか。

かつては人を刃物で殺めていたわけですけど、それが銃になって人を殺めることへの抵抗が薄れ、さらに空爆やドローンへと進化をとげたことで、ますます抵抗感を薄めるような方向へ向かっている。つまり、戦争や虐殺と、我々が現代社会で直面する非人間化は、どこか地続きの部分があると思うんです。

一方、対話の場で卓を囲んだ時に、そこにいるのは体を持った一人の人間です。自分と考えが合わない人であっても「この人は生きている」ということに触れることはすごく大切なことで、ある種、虐殺から遠のくことでもあると思うんです。

「人が怖い」「他者が何を考えているかわからない」と感じてしまう心情は理解できます。でも、その状態からでも共にいることはできるし、最後まで話を聞き合えるんだ、という経験をすると、「他者って信頼に足るんだな」「社会って信頼に足るんだな」と思えるようになるはずです。いま私たちは「怖い」「バラバラだ」と言い合い、個人主義がどんどん強くなりつつある社会に生きています。新自由主義的な価値観はそれをさらに加速させてしまっている。でも対話は、そうした流れに抗う行為なんです。

また生きたいと思える社会を「どう描いていこうか?」

9月に行われた自民党総裁選の際に、Xで「あたらしいことばを育てなければならない」と投稿されていましたよね。具体的にどのような営みをイメージされているのでしょうか?

真新しい見たことのないことばを作りましょう、という意味ではなくて、「これまでにも育ててきた大事なことばを、私たちのことばで語り直そう」という意味に近いかもしれませんね。

いま使われていることばのなかには、使われすぎて陳腐化されてしまったことばがいくつもあるんですよね。“平和”もそうですし、“対話”なんてその筆頭だと思います。ことばが陳腐化してしまうと、文脈にかかわらず、「知ってるよ」「またベタなこと言ってるよ」と受け取られてしまう。

でも、そうやって切り捨てるだけじゃなにも進まないんですよ。「なぜいま対話なのか」「対話が欠落した社会は何を生むのか」といった背景や文脈を、私たち自身の語りとしてもう一度取り戻すことが必要なんです。

ことばを“使い続ける”のではなく、いまの社会でどう意味づけ直すか。その再定義こそが必要なんですね。

いまの社会の状況で「希望」と言う時に、「じゃあそれは一体何なのか」ということは、やっぱり探さなければいけないことだと思います。

これだけ戦争が続き分断が進むなかで、その状況を指し示すことばは必要ですし、私たち自身がそれをもっと育てていかなければいけないという気持ちがあります。いまの社会を示そうとするとき、絶望、不安、社会が善くない、みたいな話は既にいっぱいありますし、もちろん、そういう側面は大切に語らなければいけません。

その中で「希望を語る」という行為は、どこか能天気に聞こえてしまう。それに、「希望なんかないよ」と言ってしまうほうが簡単なんです。ただ、それでも私たちが集い直したり、また生きたいと思える社会を「どう描いていこうか?」という語りをもっと増やしていきたいですね。

ことばを育てるという意味ですと、読書もその方法の一つだと思います。ことばを育てる上で永井さんがおすすめの本や、ことばを育てるための方法があれば教えてください。

さきほど私が話したフェミニストたちの語りについて記されている『1980年、女たちは「自分」を語りはじめた フェミニストカウンセリングが拓いた道』(幻冬社、2023年)はおすすめですね。いかに人々との中で言葉を作っていくかということが描かれています。

『1980年、女たちは「自分」を語りはじめた フェミニストカウンセリングが拓いた道』・河野貴代美・幻冬舎

それと、ことばを育てようとするときに一人でやろうとしないでいいんだよ、ともっと言っていきたいですね。いろいろな場所で「対話を一人でやる方法はありますか?」「自己内対話も対話ですよね?」と聞かれます。みんな人と対話したくないし、嫌なんだと思うんですよ。対話ってめんどくさいし、気持ち悪いし、怖いだろうからその気持ちはわかります。ただ、他人をもっと信頼していいし、一人でやろうとしなくていいんだよ、と伝えたいです。

あと、普段自分がいないような場に出かけていくことも、希望をつくるひとつだと思います。人って多くの場合、家と友人と職場の往還の中で生きていますよね。だから、そのどこかで問題が起きてしまうと「詰んだ」「社会って苦しい」と感じてしまう。よく「自立とは依存先を増やすこと」と言われますが、対話の場もその“依存先のひとつ”として持ってもらえたらいいなと思うんです。

読書会でもいいし、詩のワークショップでもいいし、対話型鑑賞でもいい。そうやって見知らぬ人と出会って信頼を作ることや、言葉を耕せる場はこの社会にたくさんあります。きっと自分の周りにも。もしよければ対話の場に足を運んでみてください。

永井玲衣(ながい・れい)
1991年東京都生まれ。人びとと考えあい、ききあう場を各地でひらいている。問いを深める哲学対話や、政治社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。

著書に『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』『さみしくてごめん』がある。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。
X:@nagainagainagai
Instagram:https://www.instagram.com/nagainagai/

 

▼永井さんの直近の著書はこちら

『これがそうなのか』・永井玲衣・集英社

永井玲衣『これがそうなのか』(集英社)

ことばと出会い、ことばと育ち、ことばを疑い、ことばを信じた。

『水中の哲学者たち』で一躍話題となった著者は、
ことばに支えられながら、世界を見つめ続ける――。
過去から現在までの著者自身を縦断し、
読者とともにこの社会を考える珠玉のエッセイ集。

【第一部 問いはかくれている】
日々生まれる「新語」。
新語は、現代社会が必要とするから生まれるはず――。
けれど、なぜ私たちはそのことばを作ることにしたのだろう?
新語の裏に潜む問いを探り出し、私たちの「いま」を再考する12篇。

【第二部 これがそうなのか】
幼少期を本とともに過ごしてきた著者。
これまでに読んできた数々の本の中から大切な言葉を選び抜き、争いの絶えないこの世界との対話を試みる。
過去に書き残されてきた幾つもの言葉から、私たちの未来を惟る12篇。

 

取材・文:吉岡葵
編集:Risa Murayama
写真:新家菜々子

 

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