
団塚唯我監督の長編デビュー作『見はらし世代』は、現代東京の再開発という題材を通して家族の再生を描いた作品として、カンヌ国際映画祭監督週間で世界の注目を集めた。
かつて渋谷の公園として親しまれ、2020年に公園・商業施設・ホテルの複合施設として再開発されたMIYASHITA PARK。本作は、MIYASHITA PARKを巡る社会問題を背景としながらも、個人的な体験を普遍的な物語へと昇華させる構造を持つが、特筆すべき点は、映画を見終わった後に「図面化できる」ほど精密な空間構成にある。とくに「神的な目線」を映画に取り込もうとした撮影手法は、従来の家族映画にはない建築的な視点を導入した注目すべき試みと言える。
社会を前進させる情報発信を行う「あしたメディア by BIGLOBE」では、この注目作について、映画解説者・中井圭との対談形式でお届けする。
※本インタビューは、作り手の意図を深く問いかける目的で、具体的内容に触れているため、ネタバレに注意したい方は、映画本編をご覧になってから閲覧されることを推奨します。

主人公・高野蓮は胡蝶蘭の配送運転手として、日々、東京の街を周回する。ランドスケープデザイナーである父、高野初は 10 年前、家族旅行の最中、建築コンペの最終選考に残ったことから、母、由美子との口論の末、仕事場へのとんぼ返りを選択する。その決断は結果的に家族4人がそろう時間を以降、なくしてしまう。そして現在、いまや国際的な活躍をしている初が、7年ぶりに帰国。回顧展の準備をしていることを蓮は知る。蓮はもう一度、家族での再会を望むが、姉の恵美は家族というもの自体に懐疑的で、再会を望まない。それでも蓮は、10 年前の家族旅行の起点へと時間を巻き戻そうと目論むが......。
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10月10日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺ほかにて全国公開
黒崎 煌代
遠藤 憲一
木竜 麻生 菊池 亜希子
中山 慎悟 吉岡 睦雄 蘇 鈺淳 服部 樹咲 石田 莉子 荒生 凛太郎
中村 蒼 / 井川 遥
企画・製作:山上徹二郎 製作:本間憲、金子幸輔、長峰憲司
プロデューサー:山上賢治 アソシエイトプロデューサー:鈴木俊明、菊地陽介
撮影:古屋幸一 照明:秋山恵二郎、平谷里紗 音響:岩﨑敢志 編集:真島宇一 美術:野々垣聡
スタイリスト:小坂茉由 ヘアメイク:菅原美和子、河本花葉 助監督:副島正寛
制作担当:井上純平 音楽:寺西涼
制作プロダクション・配給:シグロ 配給協力:インターフィルム、レプロエンタテインメント©︎2025 シグロ / レプロエンタテインメント
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カンヌから東京へ、普遍性への挑戦
中井:カンヌ国際映画祭監督週間への出品、おめでとうございます。長編デビュー作での世界的な評価について、どのような感想をお持ちですか。
団塚:選出の知らせを聞いたときは本当に驚いたんですが、実際にカンヌに行って上映を経験して、次第に実感が湧いてきました。もともと、海外の人に映画を届けることをそれほど強く意識していたわけでもなかったので、初めてしっかりと考えるきっかけになりました。
中井:基本的に国内の観客を想定されていたのでしょうか。
団塚:ぼくは東京出身で、東京の映画館で映画を観て過ごしてきました。作品のテーマとしても、東京の都市を描く映画ということで、まずは日本に住んでいる方々に、どうしたら面白いと思ってもらえるかを一番に考えて映画を作りました。
中井:ご自身の映画が、世界に通じるというのは、どういう感覚でしたか。
団塚:ぼくが映画を始めたのが20歳ぐらいのときで、それから影響を受けてきた監督たちが、たとえば黒沢清さん、是枝裕和さん。海外だとレオス・カラックスやエドワード・ヤンなどでした。ぼくは雑食でいろんな監督を面白いと感じるタイプなんですが、影響を受けた監督たちが、やはり映画祭で評価をされている監督だったというのは関連性があるのかなと思っています。
中井:いま黒沢清さんのお名前が出ましたが、確かに本作と黒沢作品は通ずるところがあると思いました。本作は監督の主観的な思いが入りながら、一方ですごく客観的にデザインされた映画であるという印象を持ったのですが、その意識はいかがでしたか。
団塚:まさにその通りですね。この映画は自分の実感から立ち上がっていますが、脚本を書き実際に映画にしていく段階で、客観性をすごく意識しました。ぼくにとって映画作りにおいて主観と客観のバランスがすごく楽しいところで、様々なスタッフの意見や役者のアイデアが入ってきて、自分が最初に書き始めたものが気がついたらみんなの映画になっていく感覚が面白いです。

「図面化できる」映画──建築的視点が生み出す新しい語り口
中井:都市の再開発と家族の再構築が重なる作品構造も、建築的だと感じます。パーソナルな物語なのにちょっと引いているような感覚もあって、かなりデザインされているなと思いました。
団塚:ぼくは家族への違和感を抱えていましたが、この閉じた家族の物語が観客にどれだけ訴求できるか分からないなと思っていました。でも、ぼくの中にあった東京という街に対しての違和感が家族の違和感と重なることで、ひとつの映画になるんじゃないかと思ったんです。もともとぼくはそれほど建築に詳しくなかったのですが、父が建築関係の仕事をしていることもあって、今回の映画を作るにあたってリサーチをし始め、その過程で出てきたアイデアをこの映画に取り入れていきました。
中井:映画のルックを見ていても洗練された美意識を感じます。団塚さんのndjcの短編『遠くへいきたいわ』(2022年)も観ましたが、団塚さんの映画はルックが決まっているのが印象的です。本作は、クロースアップもありましたが、ミドルショットからロングショットを多用していました。その絶妙な距離感に、団塚さんの美意識を感じていました。
団塚:『遠くへいきたいわ』で撮影監督の古屋幸一さんと初めて一緒にお仕事をしたのですが、これは古屋さんと一緒に見つけていった距離感なんです。かつて自主映画のときは、自分でカメラを回していましたが、このようにハマっていません。古屋さんとは美的な感覚、好きなものが近くてコミュニケーションがうまくいくんですが、お互いのアイデアを持ち寄りながら見つけていった感覚です。

中井:画面を引きで捉えて、その中を人物が移動していく。とくに、まっすぐ進むだけではなく、そこから曲がる動きも多い印象です。たとえば、MIYASHITA PARKの階段、胡蝶蘭の店で喧嘩するシーン、代官山のギャラリーで蓮が伝言を頼むシーンもそうで、そこから見えてくる客観性とシステマチックな運動が印象的でした。黒沢清作品のキャラクターの動きと画面に通ずるものがあるのかなと思いましたが、この映画のそれらのショットについて、考えを聞かせください。
団塚:この映画は、ある種、建築の映画だと思っています。花屋、展覧会場、MIYASHITA PARKなど、いくつかの象徴的なロケーションが登場しますが、強く意識したのは、映画を見終わった後、映画内に出てきた空間をちゃんと図面化できるか、ということです。これには明確な理由があります。パンフレットにも寄稿してもらった瀬尾憲司さんという建築映像作家は映画美学校の同期で一緒に映画を作っていました。彼は早稲⽥⼤学で、建築と映画について研究していたのですが、その過程で⿊沢清さんの映画に登場する建築を図⾯化していたようです。今回のような建築の映画においては、彼の研究を参考に、どうやったら映画が終わった後に図面化できるように撮れるかを考えていました。
中井:なぜ図面化できるようにしようと思ったのでしょうか。
団塚:建築についての映画でもある中で、そもそも図面的なものが立ち上がっていまの都市になっていたり、ぼくたちが住んでいる建物や部屋になっているということが事実としてあります。図面で世界を上から見て改造できるというのは、どこか神的な目線です。その神的な目線のようなものを映画に取り込みたかったんです。劇中で電球が天井から落下するのも上の世界という感覚があります。この映画はアイレベルで⽐較的素直にカメラが置かれますが、にもかかわらず世界を上から⾒ている感覚をどうすれば映画全体に漂わせることができるか、撮影中は考えていました。

MIYASHITA PARKを巡る自伝性と社会性
中井:家族を見つめ直す物語の着想について教えてください。
団塚:いちばん長くいて、最もクローズドなコミュニティを映画にするのが、まだ人生経験の少ないいまのぼくにできる最大のことだ、と考えたのが始まりでした。家族の再生をテーマのひとつに置いたのは、家族をテーマにしている映画が好きなのもあります。
中井:この物語の中で、MIYASHITA PARKのランドスケープデザインを蓮の父の初が担当していますが、実際のMIYASHITA PARKの総合デザイン監修を監督のお父様が担当されています。その点でもこの映画は自伝性の高さがあると思いました。
団塚:おっしゃる通り、自伝的な要素はもちろんあります。ただ、後半の展開などは象徴的ですが、映画的な脚色もかなり加えています。自伝的かどうかはあまり意識していなくて、この映画を観てくれる人が面白いと思ってくれるかどうかを重視しています。だから、自分以外の人が面白いと感じないだろうと考える部分は、劇中には入れていません。
中井:この映画には、公園からホームレスが追い出される描写や、建築事務所の所員による批判の言葉などを通じて、MIYASHITA PARKが内包するある種の排他性についての視点が入っていて、切り込み方も鋭いと感じました。
団塚:そうですね。MIYASHITA PARKの件は、もともと話題になっていました。この映画は、社会問題として世間的に事前に知られている状況があり、その課題について言及した映画だと思っています。⾝近な⼈に切り込むだけの映画だと、私のような新⼈ですと多分お⾦が集まらなかったと思います。

「ただ撮る」という姿勢、フラットに捉える都市と家族
中井:MIYASHITA PARKの排他性に批評的目線を入れて断罪するだけじゃなく、どこか丁寧に観察する視点がありました。作品を通じた目線の愛憎について、お聞かせください。
団塚:MIYASHITA PARKの開発が始まった当時、野宿者排除の問題が話題になり、現在も続いています。この題材で映画を撮る以上、まずは問題に対して責任を持って描こうと思いました。一方、夜にMIYASHITA PARKを散策していると、10代や20代の若者たちがすごく楽しそうに過ごしていて、それが素敵だったんです。その若者たちを、MIYASHITA PARKが抱える課題を知らないという理由で断罪できない、とも思いました。だから、自分が素直に感じたことをどちらも撮りました。
中井:なるほど。劇中、蓮が初を拒絶するように見えるが必ずしも突き放さないスタンスと、MIYASHITA PARKへの批判を感じさせるが拒絶してはいないことが象徴的に重なってくる理由が見えてきました。それが物語的にも視覚的にも一貫していることにも繋がってきます。
団塚:この映画には「ただ撮る」ことがテーマとしてあります。たとえば、息子である蓮、父親の初、母親の由美子、お姉ちゃんの恵美に対しても、そのときその場で起こったことをただ撮ってフラットに記録する。人間関係だけでなく都市描写に対しても同様にできないか、ということがテーマのひとつとしてありました。東京は、いわゆる「東京」というバイアスで語られることが多いと感じていて、そういう映画にはしたくありませんでした。
中井:この映画を観ていて、東京の街がひとつのキャラクターでもあると思っていました。意図的に建物や街並みを捉えるショットが多いこともその理由です。通常、もう少し寄りで捉える選択をする場面でも、カメラは引いている。車で移動するシーンが何度もありますが、後方斜め上から車ごと街を撮影するショットは、街を映画の主体として見せていく意識を感じます。このように、映画で街を描くことの意味を教えてください。
団塚:ぼくの映画は街も映します。そこでは車が偶然通ってしまうし、映っていた工事風景も翌日には変わっているかもしれない。いましか撮れないものを記録できるのが、映画にとって大切な気がします。「(スクリーンに映っていることが)いま起こっているんだ」という実感に繋がります。その意味で、都市を撮ることは時代を撮ることと切り離せないんじゃないかと思っています。
中井:かつて『さよなら歌舞伎町』(2014年)という廣木隆一監督の作品がありました。あの映画も、再開発が行われる当時の歌舞伎町をひとつのキャラクターとして捉えていました。この映画は渋谷の再開発が行われている過程を、象徴的に捉えています。10年後になると、おそらく街は変容していて、2025年の東京が記録されること自体に意味が生まれると思います。
団塚:そう思います。
<以降、映画の結末に触れています。ご注意ください>

サービスエリアの奇跡と、若者たちが駆け抜けるラスト
中井:サービスエリアが非常に重要な場所として扱われていますね。
団塚:昔からサービスエリアが好きで、映画的だなと思っていたので、映画を撮るときにはサービスエリアを使いたかったんです。サービスエリアは全員が休憩する場所で、中継地点的な要素がある。そういう場所って意外と多くない。そこでは物語を動かしやすいと感じていました。
中井:ぼくがこの映画が洗練されていると感じたのは、映画の後半にそのサービスエリアで起こる驚愕の出来事です。そこに至るまでは、作品としてのデザイン性は高いけど、しっかりと地に足のついた家族の姿を描いていましたが、ここでいきなり映画の魔法をかけたのが見事でした。
団塚:あの展開になることは、最初から考えていました。映画でしか起こり得ない何かによって、破綻した家族が現状を見つめ直す必要があると思っていました。そして、幽霊描写をやりたかった。その幽霊から見える人と見えない人がいるという表現をやると、いままでの映画にはない質感になるかもしれない、という企みがありました。
中井:面白いですよね。表現方法としてぼくが想起したのは、黒沢清監督の『ダゲレオタイプの女』(2016年)です。通常のホラー映画的な描写だと、ジャンプスケアやおどろおどろしい演出をするはずなのに、あの映画は幽霊が遠くからゆっくり近づいてくるのが既に見えているショットがあって、面白いなと思っていました。今回の映画でも、夫婦でひと通り会話を終えた後、幽霊がひとりで階段を降りて渋谷の街に紛れるショットが入っている。それをカメラが遠くから見つめていますが、それも『ダゲレオタイプの女』に通ずるものを感じました。そして、この映画の特殊な現象のトリガーが「電球の落下」だったことも印象的でした。

団塚:この映画では点滅が良いモチーフだと考えていました。劇中に登場する電球や車のハザードランプの点滅が命の表現になると良いなと。そして、上の世界といまぼくたちがいる世界をどうやったら接続できるだろうと考えたときに、電球の落下が最も面白いと考えて、採用しました。
中井:確かに、本作の冒頭も電球の点滅から始まっていて、劇中に起こる奇跡の予感がありますね。もう一点、とくに気になったのは、この家族の物語がひと段落ついた後、LUUPに乗って街を巡る若者たちに、物語の主体が移行することです。この結びは意外性があって素晴らしかった。
団塚:ぼくには、あの家族の物語でこの映画を終えるイメージを持てませんでした。理由は、それがはたして開かれたエンディングなのか、と考えていたからです。だから、どうしても市井の人々に視点を持っていきたかった。あともうひとつは、この作品が、都市についての映画という側面を持っている点です。この世界には親世代が作った街並が既にあって、そこに生きている若者たちはその事実に抗うことができない、と考えていました。そういう意味で、街並みを作った世代ではなく、その街の上に存在している若者たちで映画を終わらせたかったんです。
中井:なるほど。あのシーンが入ったことで、2時間近く描かれてきた家族のしがらみを、いとも軽やかに抜き去っていくような、爽やかで開かれた印象になりましたね。
団塚:先ほど、MIYASHITA PARKの問題を知らない人を断罪できない、という話をしましたが、おそらく知らない人の方が多いでしょう。だから、家族の話やMIYASHITA PARKのことを知らない人の登場で、この映画を終わらせるのが自然だと感じました。観客はこの映画を観ることで、それらを知ることになる。だから作品終盤、事情を何も知らない若者たちが突然登場してそこで映画が終わると、観客との間にギャップが生まれて突き放されてしまう可能性があります。きっとそういう感想も出てくるでしょう。でも、問題を知らない人や無関心な人の方が多いのが現実です。知らない人たちで映画を終わらせないと不誠実だと考えました。

「知らない人の方が多い」──この団塚監督の言葉が、本作の核心を突いている。
MIYASHITA PARKという父親が関わった場所を題材にしながら、その問題を知る人と知らない人、すべてを包含して描こうとする監督の視線には、現代の表現者が持つべき誠実さがある。
監督が「ただ撮る」ことにこだわったのは、安易な中立性ではない。家族への愛憎、都市開発への複雑な感情、それらを性急に判断せず見つめ続けること。蓮が初を拒絶するように見えながら突き放さないように、MIYASHITA PARKへの批判を感じさせながら断罪しないように、監督は一貫してフラットに記録することを選んだ。その姿勢こそが、二項対立に陥りがちな現代社会において、異なる立場の人々が共存する可能性を示している。
映画の終盤、LUUPに乗って渋谷の街を駆け抜ける若者たちの軽やかさが印象的だ。彼らは野宿者排除の問題も、家族の葛藤も知らない。ただそこに存在し、親世代が作った街を何も知らずに駆け抜けていく。監督はその姿を、突き放されたと感じる観客がいるかもしれないことを承知の上で映した。なぜなら、それこそが2025年の東京の現実だからだ。問題を知る人より、知らない人の方が圧倒的に多い。その事実から目を逸らさず、フラットに記録すること。本作が持つ価値は、そうした誠実さにある。
取材・文:中井圭(映画解説者)
編集:大沼芙実子
写真:新家菜々子
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