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矢田部吉彦|ダグラス・サークからペドロ・アルモドバルに至るメロドラマの系譜【世界と私をつなぐ映画】

2025年1月31日に公開されるペドロ・アルモドバル監督最新作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(24年10月のコラムで紹介)は、ベネチア映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しただけでなく、米アカデミー賞へのノミネートも有力視される重要作にして、傑作である。

そのアルモドバルが影響を受けた存在のひとりであるダグラス・サーク監督の特集が始まったこともあり、『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』と関連しそうな作品をいくつか挙げて、同作をより深く楽しむためのきっかけ作りにトライしてみたい。

アルモドバルと『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』

1949年生のペドロ・アルモドバル監督は、50年に及ぶキャリアを誇り、現代スペインを代表する巨匠である。80年代後半から世界的に知られるようになり、ビビッドな色彩とポップなセンスで一世を風靡する。ゲイ・カルチャーで用いられ、過剰なけばけばしさを意味する「キャンプ」という言葉が伴ったこともあるように、同性愛を含む人間の欲望を賑やかに描く作風で注目を集めた。やがて家族の物語にじっくりと取り組んだ作品が主要映画祭で受賞を重ね、ワールドクラスの巨匠となっていく。

アルモドバル映画の多くは、女性が主人公である。同様に母と娘の物語も多い。スペイン文化を背景にすると、女性の主人公の方がより元気で表現豊かな物語が可能になるとアルモドバルは語っているが、女性の心境を語ることに居心地の良さを感じるのであろう。新作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は、スペイン文化から離れ、アルモドバルにとって初の英語映画となったが、主役は2人の女性である。ジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントンがその2人を演じている。物語は、こんな感じだ。

流行作家のイングリッドが、旧友のマーサが病気であると知り、数年ぶりに会いに行く。マーサは末期ガンに侵されており、延命治療を拒み、自然に旅立つことを選ぼうとしていた。マーサは、イングリッドに最後の日々を共にしてくれるように頼む。イングリッドは迷うが、やがて承知する。2人は森の家に移る。

とてもシンプルにして、崇高な物語である。安楽死の是非は作品の主題ではない。語られるのは、人生と愛だ。2人の人生と愛の物語を、アルモドバル特有の美術が彩っていく。室内のインテリアと、それらの配置と、色。マーサはかつて戦場記者であり、苛酷な現実に立ち会った経験も語られる。しかしモダンアート的な美的感覚を備えた作品は、リアリズムというよりは、どこか現実を超越しているようだ。そして、愛や生死が関わるようなドラマティックな物語を、どこか現実離れした世界で美しく語るスタイルからは、「メロドラマの巨匠」と呼ばれたダグラス・サーク監督が想起されるのだ。もちろん、サークはアルモドバルが敬愛した監督の1人である。

メロドラマを確立したダグラス・サーク監督

「メロドラマ」の定義はなかなかに難しく、一般的には「昼メロ」という言葉に使われるように通俗的なドラマ(英語だとソープ・ドラマ)を指すと思われるが、映画批評の世界だと必ずしもそうならない。いや、もともと通俗的な物語をネガティブに評する際に用いる言葉であるはずだったのが、ダグラス・サークがあまりに「メロドラマ」を別次元のものとして完成させてしまったので、ポジティブな意味合いも持つようになった、という方が正確だろうか。それほどサークの存在は大きい。

1897年にドイツのハンブルクで生まれたダグラス・サークは、ドイツで映画監督のキャリアをスタートさせ、その後ナチを避けて37年にアメリカに渡り、ハリウッドで映画製作を続け、50年代にメロドラマの傑作の数々を放っている。

2人の人間の間に愛が生まれ、その成就までに数々の障壁があり、それらを乗り越えて、めでたくハッピーエンドを迎える。あるいは、悲しいエンディングもありうる。メロドラマのイメージといえば、こんなところだろうか。サーク作品も困難な愛を描くことが多い。そして世の中の映画の大半にはメロドラマの要素が含まれていると言ってもあながち間違いではないはずだ。そこで、「通俗的」だとそっぽを向かれてしまうものと、関心を抱かれるものとの境はどこにあるのだろうか?通俗的でありながらも良い映画でありうるとはどういうことかを、サークは考えさせてくれる。

https://www.imdb.com/name/nm0802862/

現在の地点からサークを考察する上で刺激的なのが、まさに「昼メロ」というタームである。「昼下がりに放送されているテレビの連続メロドラマ」である「昼メロ」は、専業主婦をターゲットにしていた。つまり女性が家の中にいることが前提とされているわけであり、サークは女性が家に縛られている社会を自覚して映画を作っている。サークの作品が家父長制を声高に批判することは無いが、サークの作品の女性主人公たちは通俗的な状況を生きる中でも主体として能動的に行動することが多く、「昼メロ状況」を打破する意思が通底していると見ていい。ジャンルの確立がジャンルへの批評性も備えるという離れ業をサークは成しているわけだ。サーク映画の多くは女性が主人公である。女性の心境を突き詰める。ここでアルモドバルとも共通する。

そしてサーク作品を特徴付けるのが、心理状態を的確に視覚化するカメラワークと、あまりに鮮やかなアートワークである。特に後者は作品に人工的な雰囲気を漂わせることで現実感が希薄となるが、それをフィクション性の強調と見るか、現実の抽象化の極みと見るか、いずれにしてもサークのメロドラマの奥深さがそのアートワークによって決定付けられている。サークが「カメラアングルは監督の思考、照明は監督の哲学」と語っているように、ビビッドな色彩と陰影の濃い照明に彩られた画面は見飽きることが無く、アルモドバルの世界観とも繋がっていくのである。

サークの代表作の1本に、『天が許し給うすべて』(55年/『天はすべて許し給う』の邦題もあり)という作品がある。小さな町に暮らす富裕層の未亡人の中年女性が、庭師の青年と恋に落ちる。たちまち結婚話に発展するが、富裕層コミュニティーでは格好のゴシップネタになってしまう。そして女性の成人している子どもたちも、母の軽はずみに見える行動を激しく諫める。女性は青年への愛と、子ども達への責任とに挟まれて、苦悩する。

https://www.imdb.com/title/tt0047811/?ref_=fn_all_ttl_1

ロミオとジュリエットの変形としての、「身分違い」がここで愛の障壁として扱われる。保守的なコミュニティーの枠にとらわれず、偏見を越えて愛に飛び込むヒロインの行動は、とても自由/リベラルに映り、魅力的だ。秋から冬にかけての季節設定が、紅葉を照らす柔らかい日光や輝く雪の白さを際立たせ、深紅のドレスなどの衣装とともにヒロインの心境を彩っていく。青年のまばゆい姿も抗いがたいが(往年の大スターのロック・ハドソン)、本作の主役はあくまで未亡人であり、サークは主演のジェーン・ワイマンから素朴で力強い魅力を存分に引き出している。

トッド・ヘインズ監督『エデンより彼方に』

アルモドバルだけでなく、ダグラス・サークを偏愛する監督は多い。その代表とも呼べる存在が、トッド・ヘインズ監督である。ヘインズ監督は、単なるオマージュを超え、まるでサークによる新作であるかのように、主題や撮影や音楽や美術までサークの真髄を再現して作品を作った。それが『天が許し給うすべて』を下敷にした『エデンより彼方に』(02)である。

https://www.imdb.com/title/tt0297884/?ref_=fn_all_ttl_1

紅葉で赤く色付く木々を上空から捉えながら、俯瞰で街並みを見せていく導入部は『天が許し給うすべて』をそっくりなぞっている。物語も50年代後半を舞台にしており、まさにサークが描いていた時代であり、サークが当時手掛けた作品であるとの錯覚に陥る。往年のテクニカラーを模した色調、室内のインテリア、明暗をはっきりと分ける照明、さらには穏やかにバックで流れ続けるスコア(音楽)など、克明にサークの世界が再現されており、その完璧主義には心底驚かされる。

しかし、やがて少しずつ差異が感じられるようになってくる。例えば、サーク作品で強調された赤色を、もちろんヘインズも重宝するのだが、主人公と友人たち4人全員に赤いドレスを着せるなど、どこか過剰なのだ。サーク作品自体がリアリズムから離れた人工的な世界であることを、ヘインズはサーク要素を過剰に盛り込むことで思い出させようとしているみたいだ。やはり本作はサーク作品ではなく、サークを意識させるヘインズ作品だということが伝わってくる。そして、物語自体が、50年代に十分には語り得なかった主題を盛り込んでいる。

裕福な家庭の主婦のキャシーは、夫が同性愛者であることを知ってしまう。夫は自分を責め、この「病気」を治すと決意する。キャシーは夫を応援する。キャシーは同性愛が病気ではないと考えるほど進歩的ではないが、夫を追放しない度量は備えている。一方で、キャシーは若くインテリジェンスを備えた庭師の黒人青年と親しくなる。しかし黒人青年と共にいる場をゴシップ好きの知人に見られてしまい、町の名士であったキャシーは激しいスキャンダルの対象にされてしまう。

サークは1959年に傑作『悲しみは空の彼方に(Imitation of Life)』で人種差別を作品の主題に取り上げるが、ヘインズは改めて50年代の人種差別と同性愛差別がいかに酷かったか、そしてアメリカの病理がいかに深刻であるかを、痛切に訴える。

https://www.imdb.com/title/tt0052918/?ref_=nv_sr_srsg_0_tt_8_nm_0_in_0_q_Imitation%2520of%2520Life

『エデンより彼方に』において、夫からの愛の断絶と、黒人青年への愛の不可能に苦しむ主人公に扮するのが、ジュリアン・ムーアである。サーク映画の色調に絶妙に馴染み、意思を持ったヒロインとして毅然と人生に立ち向かう。ヘインズと同様にサークを愛するアルモドバルが、初の英語映画である『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』の主演にジュリアン・ムーアを起用したのは偶然であるはずがないだろう。映画史のリンケージが浮かび上がるようだ。

ファスビンダー『不安は魂を食い尽くす』

ダグラス・サークへの愛を誰よりも早く表明したひとりに、ドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督がいる。主に70年代に活躍したファスビンダーは、戦後ドイツの最も先鋭的で重要な映画作家の1人である。82年に37歳で夭折したが、現在に至るまで多くの映画作家に影響を与え続けている。

例えば、フランスの人気監督のフランソワ・オゾンは近年ファスビンダー作品をリメイクしたばかりであり、サークへの愛も継承している。また、トッド・ヘインズは大学でフェミニズムのゼミに通った際に、『天が許し給うすべて』を土台とした映画としてファスビンダー作品に出合っている。ヘインズの『エデンより彼方に』に先駆けること約30年、ファスビンダーが同じく『天が許し給うすべて』を土台とした作ったその作品が、『不安は魂を食い尽くす』(74)である。

https://www.imdb.com/title/tt0071141/?ref_=fn_all_ttl_1

『天が許し給うすべて』で描かれた「身分違いの年の差」の恋は、『不安は魂を食い尽くす』では「異なる人種との年の差」の恋へと「進化」している。時代は、製作当時の70年代を背景とし、ヘインズがサーク作品の製作されていた50年代を描いたのに対し、ファスビンダーは自分と同時代のドラマを描いたということになる。

掃除婦として生計を立てる白人中年女性のエミは、雨宿りのために入ったバーでモロッコからの出稼ぎ労働者で肌の黒い男性アリと出会う。アリは紳士的にエミに接し、エミは親切なアリを自宅に泊め、そして愛が育まれる。やがて2人は結婚するが、周囲の激しい外国人嫌悪、移民差別に晒され、追い込まれていく。周囲のゴシップの耐えがたい状況や、エミの子どもたちが激しく反発する展開は、『天が許し給うすべて』を丁寧に踏襲している。

ファスビンダーは、さりげなく赤色を用いてビジュアル的にもサークにオマージュを捧げるが、それはささやかなものに留まり、ビジュアルよりはスピリットを継ごうとしている。差別の存在は明らかだが、それを糾弾するよりは、エミとアリの愛の素晴らしさを祝福することに重きが置かれている。世界でたった二人きりである心理状態を伝えるレストラン内のショットに代表されるシャープな撮影や、テンポの速い物語進行により、愛の物語の純度が高まっていく。愛の崇高さに貫かれた傑作だ。

ダグラス・サーク特集上映

ダグラス・サーク監督の特集が「デトレフ・ジールクからダグラス・サークへ」と題され、2024年12月28日~2025年1月31日の期間に開催されている。デトレフ・ジールクというのはサークのドイツ時代の名前であり、ドイツ時代とアメリカ時代の活動がカバーできる特集になっている。アルモドバル『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』の公開が1月31日からなので、サークに触れてからアルモドバルに備える絶好の機会となっている。

残念ながら、上記で紹介した『天が許し給うすべて』は上映されないのだが、今回の特集の中からメロドラマ巨匠としてのサークの真髄に迫る1本を紹介したい。『心のともしび』(54/原題はMagnificent Obsession)という作品である。

https://www.imdb.com/title/tt0047203/?ref_=fn_all_ttl_1

金持ちの息子で身勝手な青年が自業自得のボート事故を起こし、救急隊に助けられる。その際に使用された酸素吸入器は地元の名医の持ち物であったが、同時刻にその名医が自宅で発作を起こし、吸入器が手元に無いため、死んでしまう。自分のせいで名医が死んだことを悟った青年は、未亡人に金を渡して謝罪しようとするが拒絶される。そして青年を避けようとした未亡人は車に接触して失明してしまう。青年は身分を隠して未亡人に寄り添い、相手が誰だか分からない未亡人は青年に特別な思いを抱くようになる。

まさにご都合主義で、一笑に付されてしまうような大仰な物語だが、もとはロイド・C・ダグラスという牧師出身の作家が1929年に発表した小説が原作で、改心や無私の奉仕や倫理感を含むキリスト教的価値観の啓蒙の要素が多分に含まれるものだった。1935年に初映画化されて人気を博し、その約20年後にアメリカのメジャー映画会社のひとつであるユニバーサル社がリメイクを思い付き、その仕事をサークに託したという経緯がある。つまりサーク自らが選んだ物語ではなく、「おぞましく狂ったストーリー」とサーク自身も語っているという。

しかし、その仕上がりは凄まじいの一言だ。ストーリーが狂っているなら、その色彩感覚も狂っている域に突入している。ビビッドな色が画面中にぶちまけられたようで、異常に美しい。その美しさはシュールですらあり、ここでも物語世界が現実性を失い、全てが明確に映っているにも関わらず、どこか抽象化されているような錯覚に陥っていく。明暗がはっきりとした照明は、未亡人の失明によってより象徴的に使われることにもなる。改心した青年が土壇場で教えを乞う人物は、まるで天上の神のような位置から青年に頷きかける。ひとつひとつの場面から、全く目を離すことが出来ない。

『心のともしび』はアメリカで大ヒットし、ユニバーサル社がすかさず主演のジェーン・ワイマンとロック・ハドソンのコンビを再起用して作られたのが『天が許し給うすべて』であり、サークのキャリアの重要作となったのは上述の通りである。

『心のともしび』で身勝手な性格から改心する青年を演じたロック・ハドソンは、作品の大ヒットによって一躍スターとなり、ハリウッドを代表する存在へと成長していく。ユニバーサル社はハドソンを頑丈で頼り甲斐のある「男らしい」美男子として売り出したが、ハドソンが同性愛者であることは近しい人物には知られていた。しかし会社は理想の男性としてのハドソンのイメージを押し通し続けた。やがて80年代に入り、エイズに蝕まれていることを公表したハドソンは、85年に59歳で亡くなる。

サークの『天が許し給うすべて』のロック・ハドソンはまばゆい笑顔でスクリーンを照らしている。『天が許し給うすべて』を土台とした『エデンより彼方に』おいて、同性愛者である自分に苦しむ夫の姿をヘインズが描いたのは、ロック・ハドソンへのオマージュであったに違いない。

おわりに

サークが語るメロドラマの定義のひとつに、次のようなものがある。

「メロドラマは、宗教やギリシャ悲劇の世俗化した形態であり、紋切り型の中に、人間本性根源的な様相を深く浮き彫りにするものだ」

サークは「世俗化」や「紋切り型」を十分に自覚しており、型にはめた物語世界の中から、人間の本性を抽出しようとする。「リアル」であることに価値が置かれる映画が存在する一方で、大衆的で人工的な映画の中で表現を追求するサークは類まれなる表現者であり、誰よりも映画芸術の本質を見抜いていたのかもしれない。

ひとつの映画から、他の様々な作品を想起していく行為はゲームにも似ていて、映画ファンにとって大きな興奮と歓びを伴うが、アルモドバルの新作とヘインズの旧作がジュリアン・ムーアで結びつき、ともにサークを敬愛しているという背景は想像力を刺激してやまない。ただ、本稿ではメロドラマの側面に限ってしまい、アルモドバル/ヘインズ/ファスビンダー(そしてロック・ハドソン)らの作品をクイア映画の観点から掘り下げる必要もあるのだが、それは次の課題としよう。まずはサーク特集と、アルモドバル『ルーム・ネクスト・ドア』を楽しんでもらえたら嬉しい。

 

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい

 

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