世界の映画の潮流におけるいち指標となるカンヌ映画祭が、今年(2025年)も5月に開催された。アートからエンタメまで、最新の重要作がひしめくカンヌから、コンペティション部門の受賞作を中心に作品を紹介してみよう。
映画祭を通じた所感
2022年のウクライナ戦争本格化以来、ガザ戦争とトランプ大統領再選を経るなかで、国際映画祭は政治化の流れで揺れてきた。反ロシアで団結できているうちは政治化の傾向も旗印のひとつとして機能したが、イスラエル政府批判が反ユダヤ主義と曲解される状況がリベラルな映画祭を混乱に陥れ、2025年はむしろ映画祭が脱政治化していくのではないかとの見方もあった。
しかし、そう単純に物事が進むわけでもなかった。カンヌ映画祭を見ている限り、各地の政治状況を憂う作品の数が減ることはなく、広く人権を意識した作品の存在が映画祭の主流を占めていると言っても過言ではない。ウクライナの現状を伝えるドキュメンタリー、パレスチナの監督による風刺作品、イスラエルの監督が罪悪感に苦しむドラマ、あるいは、クィア映画やフェミニズムを主題とする作品の数々が、カンヌ映画祭の全部門を通じて、もはや当たり前のように自然に存在している。
政治/社会の流れから無縁でいられない人間のドラマが描かれる映画が、政治的/社会的であることから逃れることがそもそも無理なのであって、カンヌはそういった作品を並べることに「慣れた」ように見えた。カンヌ開幕直前に、有名俳優のジェラール・ドゥパルデューによる性加害に有罪判決が下され、審査委員長を務めるジュリエット・ビノシュはコメントを求められることになったが、カンヌは静観することも騒ぎ立てることもなく、粛々と状況を受け入れたようだった。
2023年のベルリン映画祭が(反ロシアで団結した)自らを「政治的映画祭である」と呼び、(ガザを巡って内部が分断された)24年に足元をすくわれてしまったことを反面教師とするかのように、映画祭が政治的ポジションを主張するのではなく、政治的に重要な作品をきちんと上映することこそが重要なのであり、それ以外のポーズは不要であるとの基本に立ち返ったのかもしれない。
そして、映画祭は器であるとの姿勢を強めたまさにそのとき、政治的に痛快な筋書が用意されているところに、映画祭のマジックが存在するに違いない。リベラルな姿勢によってイラン当局からの迫害が続いたジャファール・パナヒ監督が、14年振りに海外渡航禁止処分を解かれてカンヌ現地入りを果たし、さらにイランの状況に対する痛切な批判を込めた新作が見事に最高賞のパルムドールを受賞したのだ。
先にしっかり確認しておくと、今回の受賞に際して、長年に渡り国際映画祭に作品が選ばれながら、現地を訪れることのできなったパナヒ監督に対するご祝儀的な忖度要素は一切ないことを、自分は審査員の一員ではないけれども、断言しておきたい。それだけ、作品自体が素晴らしかったのである。
虐待下にありながら映画を撮り続けただけでなく、その才能にさらなる磨きをかけることのできた稀有な存在であるパナヒ監督は、政治に対する芸術の勝利を見事に謳い上げた。その姿を讃えたカンヌが政治的であるかどうかは、もはやどうでもいいだろう。
パルムドール作品『It Was Just an Accident』
前述の通り、ジャワール・パナヒ監督は新作『It Was Just an Accident』で見事最高賞のパルムドールを受賞したのだが、「芸術の勝利」との記述は直ちに訂正が必要かもしれない。なぜなら、イラン国内では芸術が勝ったわけでは全く無く、いまだに多くの芸術家が獄中にあるからであり、パナヒ監督も公式上映時の大拍手の後に、自分だけが素直に喜ぶわけにいかないと苦渋の心境を語っていたからだ。そして、まさにイラン社会において人々が不当な投獄を余儀なくされる状況を告発する作品が『It Was Just an Accident』なのである。
「それはちょっとした事故に過ぎなかった」というタイトルが示す通り、一家の父親が運転する車が犬に接触する「軽い事故」から映画は端を発する。しかしその軽い事故が数珠つなぎ的に様々な事態を誘引し、スリルに満ちた予想のつかないドラマとして展開していくのが本作の魅力であり、ゆえにストーリーの紹介は最小限に留めねばならない。事故を起こした父親がたまたま立ち寄った店で従業員の男に目撃され、従業員男は血相を変えて父親男の後を追う。追う者と、追われる者。それぞれにいかなる過去があったのか。隠された背景を、映画は少しずつ明らかにしていく。
2022年にイランで起きた反スカーフ運動は、イラン社会に変化を予感させる動きだったが、『聖なるイチジクの種』(24/モハマド・ラスロフ監督)でも言及されていたように弾圧も激しく、国による酷い暴力が伝えられた。『It Was Just an Accident』にも、その運動との関連を想像させる女性が登場する。そして反スカーフ運動だけではなく、ささやかな社会運動が問題視される場合があることも言及される。受け手の想像力に訴える形で、苦境の蓄積がストーリーの核となっていく。
パナヒが巧みであるのは、全てを言わずに、全てを言っていることだ。映画の表面に見える事象と、そこに横たわる真実とを、パナヒは別の回路で届けてくる。アクロバティックに展開するストーリーは、観るものを一瞬たりとも飽きさせないエンタメ性を備えているし、そこには驚くべきことにユーモアさえ漂う。しかし、底には、ぱっくりと巨大な黒い穴が開いているように、限りなく深い闇の広がりが確かに感じられるのだ。おそらく、コンペティションに出品されている全作の中で最も少ない予算で撮られたはずの本作は、驚くべき洗練と語り口によって、最も豊かな効果を上げることに成功している。
何度繰り返しても足りることはないが、パナヒは十数年に渡る投獄と軟禁の状況下で、この洗練を身に付けていったのである。自ら体験した非道な仕打ちを芸術に昇華できる才能と肝を備えた映画人は、戦後世界に複数人存在する。しかし、未だ危機の渦中にありながら妥協せずに向上し続けているとなれば、映画史上でも稀な存在であるに違いなく、パルムドールは当然の帰結だろう。
今後の状況として気になるのは、映画検閲に対してイラン当局の締め付けが緩和されたのかどうかだ。2024年に決死のカンヌ入りを果たしたモハマド・ラスロフ監督はドイツで亡命生活を余儀なくされている。それに対し、パナヒは無事に帰国を果たし、ファンの熱い出迎えさえも受けたと報道された。今回の受賞は状況改善への1歩となるのか、それともそれは甘い認識なのか、今後の推移を全世界の映画ファンが注視することになる。
グランプリ作品『Sentimental Value』
デンマーク生まれのヨアキム・トリアー監督は、近年では都会の現代劇に冴えを見せている。前作の『私は最悪。』(21)では30歳手前の女性を主人公とし、キャリアと恋愛に揺れる彼女の内心を細心の注意を払って描き、ロマンティック・コメディーの商業性と丁寧な心理描写を中心としたアート性を兼ね備えた作品として、世界的な評価を獲得した。主演したレナーテ・レインスヴェはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞し、一躍欧州のトップ俳優のひとりとして出演作が相次ぐ存在となったが、トリアー監督が再びレインスヴェを起用して完成させた新作が『Sentimental Value』である。
あらすじは、こんな感じ。ノラは実力のある舞台女優だが、極度の舞台恐怖症に悩まされている。母親が亡くなり、妹のアグネスとともに葬式をあげるが、キャリアの為に家を去って久しい父グスタヴが現れ、姉妹は過去と直面することになる。かつて母との激しい喧嘩が絶えず、姉妹の少女時代に暗い影を落とした元凶が父であり、いまさら距離を縮める気は姉妹にはない。グスタヴはピークを過ぎた映画監督であり、久しぶりの自信作となりそうな新作の主演をノラにオファーするが、彼女は脚本すら読まずに断る。代わりに、ハリウッドの人気女優がその役に興味を示す。
とてもスムーズな形で、家族の物語が繰り広げられていく。先にトリアー監督の特性のひとつとして商業性とアート性の共存を挙げたように、シャープな映像と没入しやすい物語とスター俳優を揃えた作品として多くの観客にリーチしやすい内容であり、一方でドラマティックになり過ぎない抑制の効かせ方と、各登場人物の内面を掬い取る丁寧さからは、アート映画の落ち着きをまとっている。
今作の魅力のひとつには、父親を一方的な悪役にすることなく、妹を含めて家族全員の立場を等価に語ろうとするフラットな視線にある。演劇人の姉と専業主婦を選択した妹のふたりの女性の内面を丁寧に描き、キャリアを家族に優先させた父の苦渋もまた、真っ当に表現される。そして演劇や映画といったアートが、家族間のわだかまりをほぐす役割を果たす。彼らの暮らした家そのものが重要な役割を担い、その空間は映画のセットと繋がることで観客にダイレクトに届けられることになる。
もちろん、父親の職業を映画監督としたことで、映画ファンにはたまらない「映画ネタ」が劇中に散りばめられているということも見逃せない。スター俳優競演とアートの重要性、そして分断家族の復活という様々な見どころを備えた本作を、パルムドール候補に挙げる声も多かった。2025年のカンヌを代表する作品の1本である。
審査員賞『Sound of Falling』
ドイツのマシャ・シリンスキ監督は、国際的にはほぼ無名の存在であり、長編2作目のカンヌコンペティション選出はサプライズだったと言ってもいい。そしてその選出は伊達でなく、シリンスキ監督の強靭な個性はカンヌ観客に大きなインパクトをもたらしたのだった。
作品は、ドイツ北部の農家を舞台に、20世紀初頭から現代に至る約100年に渡り、その家で暮らした女性たちのエピソードで紡がれる。主要な時代は4つ、ないしは5つで、その時代ごとに中心となる女性の視点によるエピソードが語られるのだが、独特なのはその語り口だ。時代ごとにクロノジカルに見せていくことは全くせず、映画は時代の間を自由に行き来し、各シーンがシームレスに繋がれていくので、いま見ているのがどの時代の誰の話なのかが、しばらくは全くと言っていいほど分からない。
しかし、やがてモザイク状に散りばめられたエピソードのパッチワークに慣れて来ると、全体像が浮かび上がってくる。各時代の女性たちの個の記憶が、時代を越えた集団記憶のように感じられ、魂の継承の物語であるようにも見える。欲望と抑圧、そして性虐待や家父長制への抵抗の主題も底流し、徹底したリアリズムに、死や死後や精霊の世界が混じり合っていく。自在な映像美と丁寧に計算された音楽の効果も大きく、何よりも奔放に走り回るような編集はほとんど未曽有の世界だ。
2時間40分に及び、全く目が離せない完全集中状態へと誘われる。この監督の力量は、ただ事ではない。しかし、一度の鑑賞では理解に限界があるので、日本公開の際には必ず再見することとしたい。それほど、尾を引く作品である。
審査員賞『Sirat』
審査員賞は2作品に対して与えられ、『Sound of Falling』と同時受賞したのが、スペインのオリヴァー・ラクセ監督による『Sirat』だ。スペインとフランスにルーツを持つラクセ監督は、前作『ファイヤー・ウィル・カム』(19)がカンヌ「ある視点」に出品され、審査員賞を受賞した実績がある。山火事を圧倒的な迫力で映像に収めた本作は、大自然の驚異と家族の物語を結び付けたものだったが、新作もその二つの主題を持ち、さらにパワーアップを成し遂げていた。
では、『Sirat』について。モロッコの砂漠地帯で巨大な野外フェスが開催され、失踪した娘をフェス会場で探す父親のドラマが描かれる。各地のフェスを巡っているヒッピー的な集団と知り合った父親は、彼らと行動を共にし、娘を探すべく極地を車で移動することになる。
本作の魅力を一言で言えば、映画を映画館に取り戻す作品だ、ということだろうか。いきなり砂漠における野外フェスで始まるが、トランス系のヘヴィーなEDMが轟音で砂漠に鳴り響くその迫力は、映画館の大音量が必須となる。そして、巨大トラックが砂漠を疾走し、断崖絶壁を移動するシーンなどは、映画館の大スクリーンが絶対的に必要だ。途方もなく規格外の何かを見ている気分になり、こういう突拍子もない作品はAIには発想できまいとさえ思ってしまう。
迫力の音響と映像を特徴とする作品の前に文章は無力であり、さらに物語にも重要な仕掛けがあるので詳述は避けないといけず、紹介者泣かせの作品だ。本作のギミックがストレート過ぎると見なした人もいたかもしれず、カンヌにおける本作の評価は割れたようだった。しかし、大自然に相対する人間の非力さと愛の強さを描くラクセ監督の姿勢を知っているものにとっては、堪らない作品である。
巨大なサプライズが随所に配置され、最低3度は文字通り席から飛び上がった。極限状態、トランス。砂漠と巨大スピーカー。やはりどこか規格外の何かを捉えている作品なのだ。思わず、畏敬の念を抱いてしまう。
監督賞『The Secret Agent』クレベール・メンドンサ・フィーリョ監督
ブラジルのクレベール・メンドンサ・フィーリョ監督は、繊細と大胆を自在に使い分け、良い意味でつかみどころの無い不思議な魅力を持つ存在である。スタイルを固定しないことがスタイルであると言っていいかもしれない。新作は、70年代のブラジルの権力構造に翻弄された人々の運命を描くドラマ、と要約していいだろうか。いや、少し単純化し過ぎかもしれない。
辺鄙な村に都会から男性が移住してくる。男性は村の人々と交流するが、何らかの事情を抱えているらしい。一方で、男性をふたりの殺し屋が狙う。
ジャンルは一応スリラーと呼んでいいだろうか。70年代のブラジルは軍事独裁政権下にあり、この暗い時代を描く作品としては、相次ぐ拉致監禁事件をベースにした秀作『アイム・スティル・ヒア』(2024/ウォルター・サレス監督)が2025年8月8日の公開を控えているように、70年代という時代がブラジル映画の重要な主題であり続けている。77年を背景とする本作『The Secret Agent』も、男性が隠れ家を求めて村に避難してきたことが少しずつ分かってくる。
いかなる事態を男性が経験したのか、そして男性が命を賭けても守ろうとする息子の存在なども絡み、作品は思いがけない方向へと進んでいく。しかし、本作が並みのスリラーと一線を画すのは、やはりメンドンサ・フィーリョ監督の得も言われぬスケールの大きさだろうか。本筋とは直接関係の無いところに不思議な仕掛けを配していくことで、時代の不穏な空気を匂わせようとしていくのだ。
描かれる時期がカーニバルの季節であり、警察官の顔に紙吹雪がこびりついていたり、主人公が冒頭に立ち寄るガソリン・スタンドに何故か死体が放置されていたりすることは序の口で、観客は冒頭から虚実ないまぜとなった世界に誘われる。巨大ザメの腹からは人間の脚が発見され、そして主人公が下宿する家の猫には顔がふたつある…。
一体これはどういうことか。時代をとりまく不穏な空気と、殺し屋に狙われるスリリングな状況。明かされる過去と、まだ幼い息子への愛情。まさに掴みどころが無いような、それでいて確かな手ごたえのある世界にいるようだ。事態は切迫しているはずなのだが、全体的にゆったりしたリズムで、作品には優雅さと風格が漂う。とにかくブラジル軍事政権の非道を手掛かりにしながら、複数のレイヤーを旅する体験となる。納得の監督賞受賞である。
脚本賞『The Young Mother’s Home』ダルデンヌ兄弟監督
ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟はカンヌ映画祭の常連中の常連と呼ぶべき存在で、コンスタントに届けられる新作は毎回のようにカンヌのコンペに選出され、またかとの声が確かに上がる一方で、作品を見ればやはり格段に素晴らしく、そして毎回のように何らかの賞を受賞していく。今回も、全く同じパターンを辿り、見事に脚本賞を受賞した。
援助を必要とするミドルティーンのシングルマザーを保護する施設を舞台に、複数の入居女性たちの姿を描いていく作品である。無事に出産したが相手の男性に逃げられてしまう少女(互いにせいぜい高校生くらいの年齢だ)、母親に捨てられた自分は親になれるのかと悩む少女、生まれた子を養子に出そうとするが母親に異常に干渉される少女、幸せなはずだが薬物依存から抜けられない少女など、いずれも15~6歳くらいの女性たちのケースが語られていく。
親になるには早過ぎると観客の誰もが思う状況のなかで、施設の職員たちは驚異的なプロ意識と辛抱強さで、きまぐれでわがままな彼女たちに付き添う。入居少女たちの辛い状況が描かれる一方で、職員たちの献身を通じて観客も若き母親たちの苦境に気持ちを寄り添わせることになる。
74歳のジャン=ピエールと71歳のリュックの兄弟が、どうしてミドルティーン女性の真の姿にかくも迫れるのか。ここにダルデンヌ兄弟監督のマジックが存在している。社会の底辺で苦境に陥る人物を手持ちカメラで追い、一筆書きのように現実を切り取ってみせるダルデンヌ兄弟は、90年代に映画のリアリズムを刷新したと言っていい。社会問題を根底に持ち、スピーディーでスリルと見応えに満ちたリアリズム映画の担い手として、後続の監督たちに絶大な影響を与えてきた。緊張のリアリズム映画を「ダルデンヌ的」と形容することさえあり、そんな彼らがいまだに毎回本気を出してくるので、やはりカンヌに選ばれるのは当然なのである。
実は、本作の上映を最後まで見ることが叶わなかった。残り20分くらいのところで、上映が中断してしまったのだ。なので、映画全体を見た上での感想を書くことが出来ないのだけれども、それでも圧巻の作品であることは間違いないと断言したい。若きシングルマザーたちを取り巻く現実と、彼女たちを支える施設の存在がもたらすインパクトの大きさは、俳優たちの信じられないクオリティーの演技とともに、脳裏に突き刺さる。
停電事件
ダルデンヌ兄弟作品を見たのは、映画祭最終日の5月24日(土)だった。この日の夜には、受賞作品が発表されるクロージング・セレモニーが予定されている。コンペ部門などの作品の公式上映は前日の23日に終了しており、各地の会場で多くの作品の再上映が組まれるのが最終日の恒例だ。映画祭の最終日まで滞在する人の多くが、見逃した作品をこの再上映でキャッチアップすることを目的としている。
かくして、24日の朝8時45分に組まれている『The Young Mother’s Home』を見るべく、カンヌ市内からバスに25分ほど乗った場所にあるシネコン会場に出向く。上映が始まり、完全に作品に没頭し、終盤に差し掛かった頃、突然画面が消えて、場内の非常灯が点いた。係員が説明するところによると、カンヌ市全域が停電となり、復旧の目途は不明であるという。昼に市内で用事があったため、復旧を待っている時間が無く、やむなく会場を出て市内に戻るバスに乗ることにする。しかし、全域が停電で交通は大丈夫なのだろうかと、不安が頭をよぎる。無事にやってきたバスに乗るものの、やはり信号は機能していない。それでもスムーズに市内に到着する。手信号の警官の姿も無く、いったいどうやっているのだろうか?
カンヌのメイン会場である「リュミエール」は巨大な施設であり、発電機を有しているとのことで、ここでも一度は停電で上映が中断したものの、早々に復帰したらしい。映画祭サイドも、自家発電機能により、夜のセレモニーは予定通り行う、とコメントを出した。しかし、他の施設ではそうはいかず、市外のシネコンも結局上映の復旧は叶わなかったどころか(待っていなくてよかった)、その後の全ての上映が中止になってしまった。
つまり、24日は昼の時点で1日の予定が消滅し、無駄に時間を過ごすことになってしまった。少なくない金額を負担してカンヌに来ている身としては、1日で無駄にしてしまうコストはあまりに大きい。ともかく、未曽有の事件である。
停電は、カンヌ地域だけに留まらず、南仏の広範な地域にまで及んだらしい。やがて、発電所(あるいは変電所)の2か所で放火があったことが報道され、破壊工作であるらしいとなった。そして後日、無政府主義者を名乗る2名の人物による声明文がネットに上がった。
クロージング・セレモニーは予定通り行われ、賑々しく感動的に幕を閉じたので、破壊者たちの目論見は完全には達せられなかったが、数千人に上るであろうカンヌ参加者の予定を狂わせたという点では、一定の目的は達していると言えるし、ここで僕がこうやって書くことで活動成果の拡散に手を貸していると言えなくもないので、これ以上は書くのを止めよう。
映画祭は政治的な場であるのかどうかについて本稿を書き始めたが、停電は巨大な文化イベントに憎しみを向け、何らかの政治信条のアピールを目的としたサボタージュであり、カンヌほどの規模になると政治性をまとうことからは逃れられない事実が不快な形で露呈してしまった。人命を巻き込む事態に至らなかったのが不幸中の幸いだが、来年のカンヌはさらにセキュリティが厳重になるだろうか。しかしそうやって利用者の利便性を害する結果を導くことも破壊者たちの思う壺かもしれないので、カンヌの運営も難しい。
ともかく、世界の流れの中におけるカンヌの重要性を改めて実感させられる事件であった。
おわりに
カンヌは毎年「歴史に残る年になった」的な総括をしている気がするが、ジャワール・パナヒ監督を祝福しながら、イラン当局による芸術家への人権侵害に対する認識を改めて強める結果となった2025年もまた、まるで筋書きがあったかのように強く印象に残る年となった。
イランの暗黒の事情を斬新な形で伝えるパルムドール作品を始め、家族の物語、数世代に渡る女性たちの物語、ブラジル軍事独裁政権の影、あるいは低年齢のシングルマザー、など、各作品の題材は多岐に渡り、作家たちの個性やスタイルに発見や驚きが満ちていた。
ただし、受賞作はカンヌの氷山の一角でしかないのは言うまでもなく、他にも注目すべき作品が実にたくさん存在する。現在の映画の流れを語る上で欠かせないと思われる作品を、次回のコラムでも引き続き紹介してみたい。
矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。
寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい
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