よりよい未来の話をしよう

杉田俊介|五条悟と夏油傑——『懐玉・玉折』は何を描いたのか

※本記事は、漫画『呪術廻戦』最終話までの内容に触れています。未読の方はご留意のうえお読みください。

『呪術廻戦』の序盤では、正しい死とは何か、正しく生きるとは何か、という実存的な<正しさ>をめぐる物語が展開されます。物語の主人公である虎杖悠仁は、第1話の時点で、自分を育ててくれた祖父の遺言を自らの倫理観とします。祖父はこう遺言していました。「オマエは強いから人を助けろ/手の届く範囲でいい/救える奴は救っとけ/迷っても感謝されなくても/とにかく助けてやれ/オマエは大勢に囲まれて死ね/俺みたいにはなるなよ」

これはいわば強き者は弱き者を助けねばならない、というノブレス・オブリージュ的な利他性であると言えます。それをここでは倫理的な<正しさ>と呼んでおきます。しかし、よく読んでみれば、第1話目の時点ですでに、虎杖は祖父の<正しさ>を「面倒くせえ呪い」とも感じていたのでした。この点は重要です。

物語の序盤、虎杖はこの<正しさ>の両義性をめぐって苦悩し、葛藤し続けます。人間にとって「正しい死」と「間違った死」という絶対的な区別がある(はずだ)、という考え方に呪縛されてしまったからです。虎杖は「せめて自分が知ってる人くらいは正しく死んでほしいって思うんだ」と強く願うようになり、それを自らの行動原理とします。けれども、そんなことがそもそも可能なのでしょうか?

虎杖の問いが個々人の実存的な<正しさ>の問題に関わるとすれば、『呪術廻戦』の中盤以降になると、どのようにこの世界のシステムを変えればいいのか、人間たちが負の感情=呪いの悪循環からいかに逃れられるか、というより大きな、公共的な問いが現れてきます。これをここでは<正義>の問題と呼んでおくことにしましょう。

正論と傲慢

この<正しさ>から<正義>へ、という転回点を告げるのが、まさに五条悟と夏油傑の高専2年生時の青春期を描いた過去編『懐玉・玉折』でした。

五条と夏油は正反対の考えを持ちながら、互いの実力を認め合う親友でもありました。たとえば夏油が「呪霊の発生を抑制するのは何より人々の心の平穏だ」と述べたのに対し、五条は、「弱い奴等に気を遣うのは疲れるよホント」とうんざりしたように言います。夏油がさらに「“弱者生存”それがあるべき社会の姿さ/弱きを助け強きを挫く/いいかい悟/呪術は非術師を守るためにある」と五条を諫めると、五条は、俺はそういう<正論>が嫌いだ、と挑発的に反論します。「呪術【ちから】に理由とか責任を乗っけんのはさ/それこそ弱者がやることだろ/ポジショントークで気持ち良くなってんじゃねーよ」

強い者が弱い者を守ることで社会は回っていく、という夏油の(いわばリベラルな)<正論>と、強い者は自分の強さに理由や責任を乗せるべきではない、という五条の(ニーチェ的な意味での、貴族的な超人思想を思わせる)<傲慢>。青春期にある二人は、どちらも、この時点ではまだ挫折を知りません。

二人は高専の任務で、「天元」が新たに進化するための媒体となる、「星漿体」の適合者である少女、天内理子を護衛することになります。しかし、賞金目当てで襲ってきた伏黒甚爾に二人とも敗北し、理子も眼前で殺害されてしまいます。

伏黒甚爾は、呪力を全く持たない天与呪縛のフィジカル・ギフテッドであり、呪術師としてはエリートであるはずの二人は、彼に手も足も出ません。甚爾は、親や血筋に「恵まれたオマエらが呪術も使えねぇ俺みたいな猿に負けたってこと」をよく覚えておけ、と嘲笑します。その後、死と復活を経た五条悟は「天上天下唯我独尊」に覚醒し、真の「現代最強」に成ります。

優生思想的な憎悪を抱え込む、夏油

その1年後、最強になった五条悟は、一人で任務を引き受けることが多くなり、夏油はかつての自らの<正論>に疑問を持ち、次第に狂いはじめます。他人を犠牲にして生きることに何も感じない一般大衆の弱さ、醜悪さ。それを知って、かつその上で弱者を救うこと。夏油はそれが強者=呪術師としての自分の使命だと考えていました。しかし人間の弱さ、大衆の醜悪さが想像以上であることを思い知り、段々と耐えがたくなります。やがて、夏油は、大衆は<猿>だ、という優生思想的な憎悪を抱え込むようになります。

そんな折に、特級術師の九十九由基が夏油のもとに会いに来ます。九十九由基は、呪霊に対する高専の現在の方針はあくまで「対処療法」にすぎない、と批判的であり、むしろ「原因療法」を探し求めたいのだ、と語ります。つまり、呪術師が命を懸けて個々の呪霊を倒すのではなく(そのような呪術師の自己犠牲こそが夏油の精神をすり減らす原因でした)、そもそも「呪霊の生まれない世界」へとシステムを変えられないだろうか、と。

九十九の考えでは、論理的に、そのための方法は二つあります。一つは、全人類から呪力を無くすこと。もう一つは、全人類に呪力のコントロールを可能にさせること。前者のモデルケースは甚爾の存在でしたが、これは一般人に可能なやり方ではなかった、と九十九は結論します。

そこで九十九は、後者の、全人類が呪術師になる、というプランの可能性を考えていました。全人類が呪術を学ぶことができれば、負の感情をコントロールし、この世界にこれ以上呪い=呪霊が生まれなくなるのではないか、と。そうすれば、呪術師たちが自己犠牲的に戦い続ける必要もなくなります。

九十九の壮大なプランを聞いた夏油は、別の一つの可能性を思いつきます。九十九由基のプランの裏面として、人間全員を呪術師にするためには、「非術師を皆殺しにすればいい」のではないか、と。つまり、徹底的な優生思想的な操作によって、術師になれない一般大衆=<猿>を皆殺しにすれば、呪いの悪循環というシステムを超えられるのではないか。夏油は自らの思い付きにぞっとします。

夏油は「弱者故の尊さ」と「弱者故の醜さ」の境界線がだんだんわからなくなり、非術者を見下す自分とそれを否定する自分の間で葛藤していました。しかし、「術師というマラソンゲーム」の果てには何があるのか。そこにあるのが術師たちの自己犠牲と不幸であり、「仲間【じゅつし】の屍の山だとしたら?」。術師たちが命を懸けて戦って犠牲になっても、呪いが廻り廻っていくこの世界が少しも良くならないとすれば?

親友であった五条悟との関係が壊れはじめていたことも、夏油の葛藤をより深めました。実際に、天上天下唯我独尊的な「最強」の五条悟であれば、彼一人だけの力によって、世界のシステムを変革することも可能でしょう。たとえば若い頃の七海建人は、任務で灰原を失ったとき、夏油に対し「もうあの人(五条のこと)1人で良くないですか?」と言っていましたが(その後実際に呪術師を一度辞めています)、この「あの人1人で良くないですか?」とは、夏油もまた無力さとともに自らに何度も問いかけた疑問であるでしょう。

<教育>の可能性に賭けた、五条

そしてこの後、ある事件をきっかけに、完全にダークサイドへと堕ちた夏油傑は、非術師=猿どもを皆殺しにし、呪術師だけの世界を作り上げることを志すようになります。そこには「意味」も「意義」もあり、「大義」すらあるはずだ、と。

他方で、五条悟の側もまた、親友の夏油との離別によって、一つの決定的な挫折を味わっていました。考え方は違えども対等だった友を失うこと、それをどうにもできなかった――確かに自分は「最強」であるかもしれない、「でも俺だけ強くても駄目らしいよ」。五条はそう考えます。彼がその後、教員になって生徒たちに呪術を教える立場を選んだのも――性格的に明らかに向いていないにもかかわらず!――そのためだったのでしょう。ちなみに五条が、「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ/何人たりともね」と言っていたのも、自分と夏油たちとの青春期をそこに重ねていたからでしょう。

第11話の時点で、五条は次のような「夢想」を語っていました。性格の悪い自分がなぜ教師の仕事をしているか。呪術界は腐っており(物語全体を通してそのシンボルが呪術総監部であり禪院家でしょう)、「保身馬鹿 世襲馬鹿 高慢馬鹿 ただの馬鹿/腐ったミカンのバーゲンセール」だ。「そんなクソ呪術界をリセット」しなければならない。

ただし「上の連中を皆殺しにするのは簡単」だが、「それじゃ首がすげ替わるだけで変革は起きない/そんなやり方じゃ誰も付いて来ないしね/だから僕は教育を選んだんだ/強く聡い仲間を育てることを」。自分ひとりだけが最強でも、この世界のシステムを本当の意味で変えることはできません。だから五条は言います。「強くなってよ/僕に置いていかれないくらいに」

すなわち、自分一人の力で全てを変えるという<傲慢>を超えて、五条は<教育>の可能性の中に未来への希望を託そうとしたわけです。

たとえば『呪術廻戦』の高専、『鬼滅の刃』の鬼殺隊、『ワールドトリガー』のボーダー、『僕のヒーローアカデミア』の雄英高校など、近年の「週刊少年ジャンプ」のマンガでは、若者たちを育てるための職業訓練/兵士育成的な学校システムのあり方(組織論)が一つのポイントになっています(それ以前の王道的少年マンガでは、学校よりもむしろ、師弟関係にポイントが置かれていました。たとえば『ナルト』のような作品ですら、主人公の成長は基本的に師弟関係によります)。

それはもちろん、少年少女たちの成長や友情を描くという少年マンガの伝統的主題とも言えますが、それと同時に、大人たちの責任の取り方、教育や継承のあり方を問うているところが興味深く感じられます。

虎杖にとっての七海建人

その点でいえば、序盤の虎杖悠仁にとって、七海という「大人」の存在は大きかったように思います。たとえば七海は、大人には自分のことよりも子どもを優先する「義務」があると言い、「枕元の抜け毛が増えていたり/お気に入りの総菜パンがコンビニから姿を消したり/そういう小さな絶望の積み重ねが/人を大人にするのです」と述べます。

また友人になった順平とその母親を失って「正しい死」が何なのか分からなくなった虎杖に対しては「善人が安らかに悪人が罰を受け死ぬことが正しいとしても/世の中の多くの人は善人でも悪人でもない」「それらを全て正しく導くというのはきっと苦しい/私はおすすめしません」と教え諭します。正しい/間違いという安易な二元論を否定すること。まさに「大人」の意見です。

そんな七海でしたが、彼は渋谷事変での自らの死の直前に、虎杖に――「それは違う/言ってはいけない/それは彼にとって“呪い”となる」と分かっているにもかかわらず――「後は頼みます」と言い残すことになりました。その前の真人との戦いの時点では、いったん死を覚悟した瞬間に「悔いはない」と感じ、黙って死のうとしたにもかかわらず、です。

しかしこの七海の「あとは頼みます」という言葉は、虎杖にとって、祖父の遺言と同じく呪いになると同時に、呪術師としての矜持にもなっていくでしょう。問われるべきは、自分が他者から何を託されたかである、と。

五条が望んだ「強く聡い仲間」たち

最終第271話では、生前の五条悟が虎杖と交わした会話が描かれています。五条悟は修行中の何気ない時間に、こう言いました。「もう五条悟とかどーでもよくない?」「僕に何かあった時繋いでいってほしい意志も夢もあるよ/でも今の僕が僕の終わりだとしてみんないつか僕より大人になる日がくるわけじゃん/そんな中一人くらい僕のこと忘れて僕とは全く違う強さを持つ人間がいた方がいいと思うんだ」

五条は、これは「未来の話」だと言っていました。そして少し笑って虎杖に「期待してるよ/悠仁」と言います。そして宿儺との戦いを終えた虎杖は、別の誰かの「未来」に向けて、笑顔で「期待してる!!」と語りかけるのでした。純粋な贈与としての期待。その継承。それこそが<教育>の意味なのでしょう。

宿儺や五条悟のような天上天下唯我独尊的な「強さ」(それは呪いの悪循環システムを変革しえないばかりではなく、それを維持強化してしまいます)とは「全く違う強さ」とは何なのか?

それが『呪術廻戦』の物語の中では具体的に語られない。しかし、宿儺と五条悟が「化物」という点で似た者同士であるとしても、そこから宿儺はあくまでも天上天下唯我独尊を貫こうとしたのに対し、五条悟は「教育」と「期待」を通して「強く聡い」者たち(化物たち)を増やそうとしたのでした。

未来の他者に「期待」すること。自分と同じ強さではなく、「全く違う強さ」を持った他者として成長してくれることを全力で祈ること。そのために「大人」たちは努力し続けること。その先で、負の感情としての呪いがひたすら廻り廻っていくこの世界の残酷なシステムが変革されることを目指しながら。それが五条悟にとっての<教育>であり、「未来」への希望でした。たんに強いだけではなく、またたんに聡いだけでもなく、「強く聡い仲間」たちよ、増えよ。育て。それは別離に終わってしまった五条と夏油の関係をある意味でやり直すことであり、夏油が選んだ道とは別の道がありうることを具体的な実践として示してみせることでした。

もう一度引用しましょう。たんに上の「首がすげ替わるだけ」では「変革は起きない」。「だから僕は教育を選んだんだ/強く聡い仲間を育てることを」。自分ひとりだけが最強になっても、この世界のシステムを本当の意味で変えることはできない。「強くなってよ/僕に置いていかれないくらいに」――それが「最強」であることではなく一人の教育者の道を選んだ五条悟の祈りの言葉であり、遺言でもあったのでした。それはもはや<呪い>ではなく、純粋な<贈与>である、と言えるでしょう。

 

杉田俊介
批評家。1975年、神奈川県生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文芸誌・思想誌など多様な媒体で、文学、アニメ、マンガ、ジェンダー、社会問題など幅広いテーマの批評活動を展開し、作品の核心を突く読解で高い評価を受ける。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『ジョジョ論』、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『無能力批評』(大月書店)、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(集英社新書)、『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』(ele-king books)、『糖尿病の哲学:弱さを生きる人のための〈心身の薬〉』(晶文社)などがある。

 

寄稿:杉田俊介
編集:吉岡葵

 

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