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児玉美月|ファッションはわたしを形作る「第二の皮膚」【言葉で紡ぐ、いま・ここにある社会】

映画以外の趣味

「映画以外の趣味は何か?」と聞かれると、いつも答えに窮してしまう。昔から凝り性で、16歳のある日を境にひたすら映画を観る生活に突入してから、映画以外に接する機会はあまりない。映画を見始める前は、徹底して漫画しか読まない生活だった。ありったけのお小遣いを近所のブックオフに全振りし、部屋はあらゆる漫画で埋め尽くされていた。複数の物事に同時進行で興味を持つことは、自分にとってかなり難しい。それでも、昔から映画以外で好きだと言えるものがあるとすれば、それはファッションなのかもしれない。

いままでは、季節の変わり目に新宿のルミネ辺りを一周して必要な服を買うぐらいだった。特定のブランドにハマることはなかったのに、ここ数年のあいだに元AKB48の小嶋陽菜がプロデューサーを務める「Her lip to」がお気に入りのブランドになった。これだけ「推し」文化が興隆するいま、自分も人生で一度くらいは何か「推し活」をしてみたいと思っていたところ、仕事仲間から「『推し活』がファッションなのはとてもいいですね」と言われ、「これが自分の『推し活』なのか!」と膝を打った。最近も、8月に少し大人向けのハイライン「MAiSON HER LIP TO」がHer lip toからローンチされ、ピンクの糸がさりげなく縫い込まれている凝ったツイード生地のペプラムトップスに一目惚れして一生物として購入したばかり。

ずっとファッションとどこか距離があったのは、とくによく訪れていたルミネに入っているようなアパレルブランドには、誰が入るのかもわからないほど細いサイズ感の服も多く、それが入るようにダイエットに勤しむ女の子たちを見て複雑な思いをしてきたからという理由もあった。どんな既製品が流通しているのかだけでも、ひとつの「美」の価値観を形成する基準になりえる。対して、Her lip toには極端に細いシルエットの洋服はほとんどない。小嶋陽菜自身が新作を紹介するインスタグラムのライブ配信でも、「ゆったりした作りなので、美味しいご飯がいっぱい食べられます!」と宣伝していたりもする。そういうヘルシーさに、どこか安心感を覚えるのだ。

ミニスカートのイメージを刷新した1本の映画

2025年7月に、ジョン・カーニー監督による『はじまりのうた』(2013)のリバイバル上映があり、奥浜レイラさんと上映後のトークイベントに登壇させてもらった。時代劇のイメージが強いキーラ・ナイトレイは、とくに『つぐない』(2007)の光沢感のある深い緑色のイブニングガウン姿が鮮烈な記憶となって焼き付いている。英国版『VOGUE』が映画史上最も忘れられない緑のドレスのひとつに選ぶなど、公開当時から衣裳デザイナーのジャクリーン・デュランが手がけた衣裳は、称賛を集めていた。ナイトレイの俳優としてのユニークさは、時代劇が似合う古風で格調高い雰囲気と、都会的でモダンな雰囲気を見事に融合させているところにあるように思う。


『はじまりのうた』でナイトレイ演じるグレタはカジュアルな洋服を愛らしく着こなしていて、トークイベントにはそのなかでも好きだった赤いチェックシャツのワンピースに近い手持ちの洋服を選んで行った。そうではないときもあるけれど、映画のイベントではできるだけ作品からのインスピレーションで着る服を選ぶ。それは仕事の時間を少しでも楽しくする自分なりの工夫のひとつでもあり、映画に対するひとつの自分の解釈としての表現でもあり、たまに気づいてくれる人がいると嬉しい。『はじまりのうた』のイベントでも、レイラさんがグレタと同じチェック柄だと気づいてくれた。

ファッションのトレンドは、つねに繰り返される。2025年は、またミニスカートがトレンドのようで、AWの新作でもミニスカートが多く並ぶ。ミニスカートには、学生時代に制服で強制的に着せられる服であり、長さまで管理されるため、あまりポジティブなイメージを持っていなかった。ところが、マリー・クワントを題材にしたドキュメンタリー映画『マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説』(2021)で、ミニスカートがいかに女性たちに物理的な自由と精神的な解放をもたらしたか、そのミニスカートで街を闊歩する女性たちの活気を見るにつけ、自分のなかで縛ってくるものだったミニスカートが自由を与えてくれるものへと刷新された。その劇場用パンフレットを開くと、服飾史家の中野香織が卒業論文でマリー・クワントをテーマにしようとしたところ、教授陣から「軽薄なファッションはアカデミズムのテーマにはそぐわない」と反対されたという経験を綴っている。

米国版『VOGUE』元編集長アナ・ウィンターを追うドキュメンタリー映画『ファッションが教えてくれること』(2009)の序盤で、彼女は「ファッションのことを恐れる人は大勢いると思う。不安に感じるからこそけなしてしまう。ファッションの“何か”が人々を動揺させる」と口火を切っている。あるいは、ニューヨークのメトロポリンタン美術館で毎年開催される一大イベント「メットガラ」を描くドキュメンタリー映画『メットガラ ドレスをまとった美術館』(2016)では、ファッションが女性に属する浅薄なものと見なされ、“アート”の領域から排除されてきた歴史が語られる。ファッションは、美術館のような高尚な空間にはそぐわないのだと。だからファッションについて大真面目に語ることはそれ自体、そうした風潮への抵抗にもなりえる。

衣裳から紐解く映画『バード ここから羽ばたく』

視覚芸術である映画にとっても、ファッションは間違いなく不可欠な要素のひとつ。一方で、意識して注視しなければ衣裳はごく自然に背景に溶け込んでしまうので、いざ語ろうとするとなかなか難しい。とはいえ、2025年9月に公開されたアンドレア・アーノルド監督の『バード ここから羽ばたく』は、それについて触れずにいられないほど鮮やかなファッション性に彩られていた。


映画の序盤、スマートフォンで空を羽ばたく鳥を撮影している主人公の少女ベイリーの傍らを、身体にフィットしたショートパンツスタイルのセクシーな少女2人組が歩いてゆく。対して彼女たちを一瞥するベイリーは、身体のラインを覆い隠すようなオーバーサイズのパーカーに身を包んでいる。このほんの一瞬の描写から、ベイリーがまだ「女性」になることに対して抵抗感があるかもしれない心情がそっと示唆される。

再婚を控えた父親バグの結婚式で着るために用意された、「キャットスーツ」と呼ばれる身体にぴったりと張り付くようなワンピースも、彼女はすぐさま拒絶する。紫色をした豹柄のスパンコール生地で縫い上げた煌びやかなワンピースは、ベイリーを「女性」へと一変させてしまうだろう。劇中に何度も差し込まれるベイリーが迎えた初潮の血の描写は、少女から大人の女性への変化という主題を一層補強するものでもあった。

バグは映画に半裸姿で現れ、夥しいほどのタトゥーの虫たちが身体で蠢いている。その派手な身体改造は、ヒキガエルの分泌物を幻覚剤として売ろうとしているバグのアウトローとしての生き様を端的に表徴する。『バード ここから羽ばたく』のキャラクターたちは、それぞれにファッションと密接な関係を切り結んでいるが、もっとも印象的なのはベイリーが出会う不思議な男性“バード”で、彼は脛が露わになるほどの長さの、大胆なひだが施されたスカートを履いている。

たしかに、スコットランドにおける「キルト」をはじめ、男性服として分類されるスカートがないわけではない。しかし現代の社会では一般的にスカートは女性的な記号を携えた衣服として扱われるため、それはバードをどこか性別の概念をも超越した不思議な存在として高める効果をもたらす。終盤のマジカルなある展開を予兆させるかのように、バードのスカートが鳥の羽根のごとくはためく。ベイリーが最終的に自らの女性性と和解するかどうかも、ひとえに衣服に託されていた。

タトゥーを通して感じた自分の身体のコントロール権や決定権

顔まで侵食しそうなバグに刻まれたムカデのタトゥーを眺めながら、タトゥーもまた、わたしにとって重要なファッションのひとつだと想起した。

2019年の3月、渋谷にある「改良湯」でCINRAが運営していたメディア「She is(シーイズ)」とタトゥーを広める活動をする「opnner(オプナー)」のコラボレーションイベントが行われると聞きつけ、足を運んだ。日本では原則タトゥーをしていると入れない公衆浴場でタトゥーのイベントをする発想がシニカルで、普段は裸でいるはずの銭湯で、服を着てトークイベントを聞いているのは不思議な体験だった。それからちょうど3年後、わたしはようやく念願のタトゥーを入れた。

タトゥーの施術の流れは、まずデザインが描かれた転写用紙を肌にペタッと貼る。デザインが綺麗に肌に移ったら、彫師が機械でその線をなぞりながらどんどん彫っていく。たとえるならシャープペンシルの先端でガリガリと容赦無く肌を削られている感覚で、とにかく激痛が数時間続く。

もちろん医師による医療行為ではないので麻酔などは使えず、初めて彫ったときは難解な本で気を紛らわそうとして、台の上に寝そべりながらジュディス・バトラーの理論を解説する本を必死に読んでいた。二度目の施術のときには、セリーヌ・シアマ特集が組まれた『ユリイカ2022年10月号』(青土社)の原稿の締め切りが重なり、お腹に置いたパソコンにシアマの映画を流しながら受けさせてもらった。施術後は皮膚の彫った部分が瘡蓋になっていくので、痒みを抑えるためにこまめに保湿クリームを塗らなければならない。完成は傷跡が治癒してからということになる。

これまで3人の彫師に施術をお願いしてきて、人によってももちろん痛みは異なり、カラーか黒かでも変わることがわかった。失敗しないためには彫師と正確にコミュニケーションを取らなければならないが、勝手がわかってきた三度目はデザインが素敵だと思った韓国人の彫師にお願いし、当日は翻訳チャットを使いながら進めた。韓国では長らく、タトゥーの施術は「医療行為」として分類されていたため、医師免許を持たないタトゥーアーティストは処罰の可能性に晒されていた。しかし、近年のタトゥー文化の活況と認知の変容を受けて議論が高まり、2025年9月にはついに国会で合法化する法案が可決された。

言うまでもなく、タトゥーは着脱可能な衣服のお洒落とは異なり、一度彫ってしまうと取り返しがつかない。もしタトゥーを消したくなったら、除去手術は入れるよりも8倍くらい痛いと皮膚科の先生に教えてもらった(真偽不明)。韓国でも急激なブームの裏で、除去を望んで医療機関を受診する人も増えているという。とくに白いインクで入れる「ホワイトタトゥー」は、若い世代を中心に、繊細で儚いデザインを求める層に人気を集めているが、通常のタトゥーよりも除去は大変らしい。彫る前には、リスクも含め情報収集は欠かせない。後悔しないかどうか、しっかりと熟考する必要がある。

初めてタトゥーを彫り終えたとき、「あ、自分の身体って自分が所有していたんだ」という思いが電流のように駆け抜けていった。タトゥーの写真を、「自分の身体が自分のものであることの誰にも見えない秘かな証明」とテキストを添えてSNSに投稿したところ、千件を超える「いいね」がついた。日本では文化的にまだまだタトゥーが反社会性の証左であるという偏見が根強くあり、否定的なコメントも来てしまうかもしれないと予想していたけれど、もらったのは祝福の言葉がほとんどだった。

この社会に生きていると、自分の身体のコントロール権や決定権を完全に握っているとは思えないような局面に多々出くわす。それは人工妊娠中絶の権利といった政治的な事柄から、日常のささやかな決まり文句まで、様々にある。

たとえばタトゥーだけでなくピアスや美容整形といった身体加工にあたって投げかけられる「親からもらった身体を傷つけるなんて」といった叱責は、身体をいつまでも親の庇護下に留まらせ、身体の自律性を損なわせる言葉かもしれない。歳を取ったらどうするんだと言ってきた人もいたけれど、そもそも年を取ってタトゥーが入っていたらなぜダメなんだと問い返したい。

大学の前期の最終授業日、それまでまともに会話を交わしたことのなかった学生が終わった後に前まで来て、「あの、授業とは関係がないことなんですけど…」と話しかけてきてくれたので「どうしたんですか?」と聞いたら「その蝶のタトゥーがとても素敵で、それだけ伝えたかったんです」と言ってくれて心があたたかくなった。

世界に目を向ければ、タイの「サクヤン」のようにお守り的な役目を担うタトゥーや、強制収容所時代にユダヤ系の人々に刻まれた管理番号のイレズミなど、宗教や文化、政治に基づいたさまざまな意味合いを持つタトゥーが存在する。

2013年、北海道でニュージーランドの先住民族マオリの女性がアイヌ民族との交流のために招致され、食事を兼ねて入浴施設を訪れたところ、マオリの伝統文化を象徴する入れ墨「モコ」を理由に入場を拒否された事件が報道された。それは東京オリンピックの開催が決定したタイミングでもあったため、多文化に対する日本の不寛容な慣習が取り沙汰された。この報道に際してたとえば弁護士ドットコムニュースは、「法の下の平等」を定めた憲法14条を根拠に、社会通念が変化しているなかで「入れ墨=暴力団」と一括して排除するのは「合理性を欠く差別」に該当しえると見解を示した。

人が恐れる(と考えられている)集団を、何らかの特徴を根拠にひとまとめにし、排除しようとする思想は、日本社会のなかで現在ますます蔓延る排外主義にも通じるものがある。

ファッションは、社会とどう関わっていくのかを思考するためのひとつの媒体

グローバル社会のなかで、わたしたちはどのようにして他文化への理解や敬意を深めていけるのか。2025年8月に刊行されたばかりの『アーティストが服を着る理由 表現と反抗のファッション』(フィルムアート社)は、アーティストたちがどんな服をどう着ているのかを紹介していく本だった。そこでは、ヴィデオやパフォーマンス作品を制作するロサンゼルス在住アーティストのマルティーヌ・シムズが、海賊版の服に夢中なのだと語っている。アーティストはもっぱら本物志向なのかと思いきや、シムズは匿名で運営されているシカゴのレーベル「Boot Boyz Biz」の熱烈なファンなのだという。

シムズは、高級ファッションブランドが取り入れてきたスニーカーやパーカーなどのストリートウェアは、多くの場合有色人種の若者たちから盗んだアイディアだったと指摘する。こうした労働問題における力の不均衡のもとで行われる「文化の盗用」は、より立場の弱い属性から利益を剥奪してしまいかねない。シムズは「文化の盗用に関するいまの会話にはニュアンスが欠けていると思います。軍事占領、植民地主義や戦争、文化が移動して変容していくプロセスが、話から抜け落ちているのです」とも指摘している。この超資本主義社会においてファッションについて語ったり、いち消費者として消費活動を行ったりするうえでは、ファストファッションを支える低賃金労働など、労働問題とそこにある社会構造もまた決して無視できない。

ファッションは、アイデンティティにとって重要な役割を担う。わたしたちは日々、自分がどう在りたいのか、自分にどう在ってほしいのかを考えながら衣服を選ぶ。『メディア論 人間の拡張と諸相』(みすず書房、1987年)で知られるマーシャル・マクルーハンは、衣服を身体の拡張としての「第二の皮膚」と形容した。

衣服は社会生活を送る上で必須の道具として、身体を保護する働きや体温調節といった機能的な役割を果たしてくれている以上の意味を帯びる。それは、自分と社会との間のもっとも身近な接合点であり、自分が社会とどう関わっていくのかを思考するためのひとつの媒体でもある。

 


©︎ポニーキャニオン映画部

児玉美月
映画文筆家。大学で映画を学び、その後パンフレットや雑誌などに多数寄稿。共著に『彼女たちのまなざし』『反=恋愛映画論』『「百合映画」完全ガイド』がある。
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寄稿:児玉美月
編集:前田昌輝

 

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