
「正義」という言葉は、あまり評判が良くない。「正義は暴走する」「正義の反対は、もうひとつの正義だ」といった感じで、一方的かつ独善的な価値観の押し付けや、恐怖政治のようなニュアンスで語られることが多い。しかし、「正義の暴走」を嬉々として語る人が大勢いるものの、そうした人が「正義」とは何かを明確に定義しているのを見たことがない。どうも現代の日本における「正義」とは、小馬鹿にすることで「感情に流されないリアリスト」を気取ることができる、ぼんやりとした概念に過ぎないようだ。
そんななか、4月に朝日新聞に掲載された、哲学者の朱喜哲(ちゅ・ひちょる)氏による「『正義』を乗りこなす」というインタビューが注目されている。
「『正義』『公正』といった、哲学や倫理学が培ってきた言葉群は重要かつ有用です。『なんかずるい』『おかしい』という私たちの素朴な感覚をうまく表現してくれ、どんな問題があるかを抽出するのに役立つ。ただ、日本語話者は総じて、そのような『正しさ』にまつわる言葉遣いが不得手です。」
(中略)
「以前に実施した調査で、倫理とは①できれば守った方がいい『努力目標』②絶対守らなきゃいけない『義務』のどちらに近いと思いますか?と二択で聞くと。きれいに半々に分かれました。欧米での同様の調査をみると、当たり前ですが大半が②。よしあしは別として、①のようなフニャフニャとした倫理観では世界で戦えません[⋯]日本では『正義』『公正』を個人の努力や気持ちの問題に帰着させる傾向が強いので、『正義』の反対は悪ではなく『別の正義』みたいな屁理屈が横行しやすい」</引用>(※1)
哲学者として活動する傍ら、広告会社でも働く朱氏は、こうも語っている。
<引用>「現在はデータビジネスの倫理的課題や、倫理をどう社会に実装するかを考える仕事を主にしています。[…]巨大テック企業に、倫理が差別化戦略、マーケティングの武器として使われ始めているのです。『私たちは高い倫理観を持っています。安心してデータを預けてください』と」
(※1)
※1 朝日新聞「『正義』を乗りこなす」(2025年4月17日付)
https://www.asahi.com/articles/DA3S16195874.html
差別化戦略としての「人権保護」を打ち出したApple
まさに「私たちに安心してデータを預けてください」という広告を制作しているのが、iPhoneだ。ここ数年、ユーザーのプライバシー保護を訴求する「プライバシー。これがiPhone。」というキャンペーンを展開している。日本でも看板などでよく目にするので、ご存じの方も多いだろう。
健康データは、あなただけのものだから。ヘルスケアアプリが守れるようにします。
— Apple (@Apple) 2023年5月22日
Appleがこのキャンペーンをスタートしたのは2019年1月のことだ。世界最大級のテクノロジー展示会CESの会場のすぐ近くに、Appleは1枚の大型看板を掲出した。看板には”What happens on your iPhone, stays on your iPhone”(iPhoneで起きたことは、iPhoneで留まるべきだ)というキャッチフレーズが掲載されている。
Apple never shows up at CES, so I can’t say I saw this coming. pic.twitter.com/8jjiBSEu7z
— Chris Velazco (@chrisvelazco) 2019年1月4日
この看板が掲載されたのはテック企業による際限のないプライバシー収集が問題視され始めた時期だった。タイミングの良さもあって200以上のニュースに取り上げられ、7億インプレッションを記録する大ヒット広告となった。AppleそのものはCESに出展していないのに、どの出展企業よりも話題になっているのが痛快だ。
同じ年の3月に発表されたCMでは、ロッカーに鍵をかける、書類をシュレッダーにかける、人が来たら会話を中断するなど、どこにでもある日常の風景をコミカルに描きつつ「日常のプライバシーを気にかけるなら、スマホのプライバシーも同じですよね。」と、共感を呼ぶコピーが最後に入る。
翌2020年9月には、”Some things shouldn’t be shared”(シェアしちゃいけないものもある)というCMを公開。バスの中で離婚弁護士のサイトを閲覧したことを大声で告白する男性、映画館でパスワードを教えてまわる女性、クレジットカード番号を公園で広める女性などを通じて、情報がダダ漏れになる危険性をユーモラスに伝えた。
2021年4月には”Choose who tracks your information.”(あなたの情報を追跡できる人を、選ぼう)を公開。スマホを見ていて、バナー広告に追いかけられた経験がある人は多いだろう。あの追跡されるイヤな感じを、擬人化することで巧みに描いている。
その他にも、今日までAppleはプライバシー広告を毎年のように発表している。どれも秀逸なので、ぜひ”Privacy. That’s iPhone.”で検索してチェックしてほしい。
2019年のキャンペーン開始時に、Appleはキャンペーンの目的を「プライバシーという基本的人権をおろそかにする他社との差別化するため」 とコメントしている。また、キャンペーン開始の4年前、2015年の時点で、ティム・クックCEOは「プライバシーは基本的人権です」と明言している(※2)。
人権、倫理、正義と聞くと、「ビジネスの足を引っ張る綺麗事」といったネガティブな印象を持つ人も多いと思う。しかし、Appleのような世界的な企業が、「基本的人権の保護」を通してビジネス上の実利を追求し、結果を出しているのだ。現実は「倫理が差別化戦略、マーケティングの武器として使われ始めている」という朱氏の言葉通りであることが分かる。
基本的人権の保護は、かつては企業ではなく国が担うものとされていた。(現在でも国際人権条約上は人権に関する義務を負うのは国と定義されている)しかし、少子化にともなう国の影響力が低下すると同時に、国を超えてビジネスを行う企業の影響力が増加する潮流の中で、国が公共的な取り組みに関与するケースが増えている。Appleのキャンペーンも、その一例と言えるだろう。
しかし、当然ながら、すべての公共的取り組みを企業が担うことは不可能だ。企業には、分断を招くことなく「既成事実」をつくることで社会を前進させることが出来る力がある。「女性用トイレに生理用品を置いてほしい」と言った女性議員は殺害予告を受けたが、企業であれば「置きます」で済む話だ。
一方、朱氏の言う「絶対守らなきゃいけない義務」としての倫理に基づいて、あることを「守っていない」と批判するのはビジネスの苦手分野だ。企業は大規模になればなるほど利害関係者が多くなり、八方美人にならざるをえなくなる。トランプ2.0以降の、極端に分断された政治状況ではなおさらだ。
不正を批判する必要がある局面では、企業よりNGOや人権団体が力を発揮することになる。ここでは、「イノセンス・プロジェクト・ジャパン」「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」の共同プロジェクトであり、私がコピーライターとしてプロボノで関わっている「世界えん罪の日」の新聞広告を紹介したい。
※2 Gigazine「iPhoneのデータを『換金』することはない」など、ティム・クックが語ったAppleのプライバシー方針とは?」
https://gigazine.net/news/20151002-apple-privacy-commitment/
不正を批判する広告クリエイティブ
被疑者・被告人が罪を認めないと身体を拘束し、自白を強要する日本の司法制度は「人質司法」と呼ばれ、国際的にも批判されている。勾留はいつ終わるとも知れず、その間は家族や職場、友人への連絡も禁止される。あまりの過酷さ嘘の自白をしてしまい、えん罪被害に遭う人が後を絶たない。
そこで、人質司法の見直しを訴えるプロジェクト「ひとごとじゃないよ!人質司法」が、えん罪への問題意識を高めることを目的とした10月2日「世界えん罪の日」に発表しているのが、「世界えん罪の日」の新聞広告だ。第1弾は2023年10月2日、日本初の「世界えん罪の日」アクションとして中日新聞に掲載された。新聞広告を折り曲げるとボディコピーの一部が隠れるアイデアで、捜査当局が人質司法の実態を隠していることを批判している。

翌年2024年10月2日には、第2弾の新聞広告が掲出された。この年のモチーフは、袴田巌氏のえん罪事件だ。袴田氏が釈放されるまで47年7ヶ月9日、日数にすると17,388日もの拘束日数を、「正」の字の画数で表現している。

そして今年2025年10月2日に掲載された第3弾の新聞広告では大川原化工機えん罪事件をモチーフにしている。

大川原化工機による噴霧乾燥機の輸出を警視庁公安外事1課が「外為法違反」と断じて、同社の経営陣3人を逮捕・長期勾留したのが、この事件だ。噴霧乾燥機は液体を粉末にする装置で、粉ミルクや粉末スープの製造に使われる。しかし、装置のスペックによっては化学兵器製造にも使えるため、輸出は法律で規制されている。この規制の解釈に曖昧さが残ることに公安が目をつけ、証言の誘導やデータの隠蔽などを行い、大川原化工機が外為法違反の輸出をしたという事実をでっち上げたのが、この事件の内容だ。東京高裁は警察・検察の違法性を認定。国と東京都に賠償を命じる判決が下された。
噴霧乾燥機という馴染みの薄い機器をめぐる事件であり、公安の違法捜査も専門的な内容についてなので、一般の人には何が問題なのか分かりにくい。そこで今回の新聞広告では、大川原化工機をはじめとする えん罪事件が発生するメカニズムに焦点をあてた。
警視庁公安外事課は、大川原化工機事件で「警視総監賞」「警察庁長官賞」を受賞している。また、捜査員の多くが昇進した。当然、立件しただけでは、被告が有罪か無罪かは分からない。真実が明らかにされるのは裁判所なのに、立件しただけで評価されてしまうのだ。
言い換えれば、捜査を進めるうちにこれは無罪だと分かっても、事件化を見送るインセンティブが警察にはないのだ。広告ではこのことを「表彰状」という形で風刺することで、多くの人に届くことを狙った。
海外にも、社会課題を扱った広告は数多くある。例えば、2024年に「The Final Exam」という、アメリカにおける学校での銃乱射事件から生き残ることを目的としたゲームが発表されている。制作したのは銃乱射事件で命を落とした生徒の親が設立した、銃規制を訴える団体Change The Refだ。
他にも、2022年には、気候変動で沈みゆく国・ツバルが、THE FIRST DIGITAL NATIONという取り組みを発表した。海面上昇で国土を失っても主権国家であり続けるために、メタバース上のデジタル国家を設立するというものだ。
「リベラルも保守も、自分の主張ばかりしないで歩み寄るべきだ」のようなことが、よく言われる。しかし、えん罪や銃犯罪、気候変動のように、歩み寄ってはいけない問題もある。そうした問題に向き合うとき、求められるのが「正義」や「倫理」であり、その実践として広告クリエイティブが役に立つこともあるのだ。
日本こそ「エシックス経営」を
京都先端科学大学の名和高司教授は、 2025年4月23日の日経新聞で次のように語っている。
エシックス(倫理)が改めて問われる時代になった。その背景にあるのは世界、そして日本を飲み込もうとする負の潮流だ。
世界ではトランプ2.0に代表される狭隘な利己主義が横行している。欧州の極右勢力の躍進も見逃せない。地球レベルでの共生という世界共通の理念が急速にしぼみつつある。
(中略)
世界には利益至上主義が復活しつつある。ESG(環境・社会・企業統治)や持続可能な開発目標(SDGs)といった理念は影を潜め、株主価値の最大化を優先する企業が資本市場で高く評価されている。
(中略)
正しい未来に向け、この負のサイクルを反転させなければいけない。その基軸としてエシックスが注目されている。
(中略)
江戸時代から「三方良し」や「自利利他」などを重んじてきた日本は、エシックス経営の聖地だったといえるだろう。しかしバブル崩壊以降、英米流の株主資本主義を世界標準と勘違いして移植してしまった。その結果「平成の失敗」をもたらしたのである。
世界的にエシックスの重要性が注目される今こそ日本が大切にしてきた経営思想に立ち返り、未来に向けてバージョンアップしなければならない。
(中略)
それを「シン日本流」として世界に発信することができれば、日本企業が次世代を切りひらくことができるはずだ。
(※3)
「正義」や「倫理」といった、「リベラルっぽく」思えるものに対して、「西洋の押し付けだ」と感情的な反発を示す人が少なくない。しかし、名和教授が言うように、日本にも正義や倫理の潮流はあるのだ。トランプ2.0やイスラエルをめぐる偽善性などで、欧米が倫理の担い手としての地位を失いつつある今こそ、(あえてプラクティカルな書き方をすれば)日本がその穴を埋めるチャンスと言える。
欧米の正義をお手本とする国から、大切にしてきた自国の正義を実践する国へ。日本が次のステージに進むために、広告にできることはたくさんあるはずだ。
※3 日本経済新聞「エシックス経営、倫理を軸に行動原理を持て 名和高司氏」(2025年4月23日付)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD300ZR0Q5A130C2000000/

橋口 幸生
クリエイティブ・ディレクター、コピーライター。最近の代表作はNetflixシリーズ三体「お前たちは、虫けらだ」キャンペーン、ニデック「ニデックって、なんなのさ?」伊藤忠商事「キミのなりたいものっ展 with Barbie」、世界えん罪の日新聞広告など。『100案思考』『言葉ダイエット』著者。TCC会員。趣味は映画鑑賞&格闘技観戦。
https://twitter.com/yukio8494
文:橋口幸生
編集:Mizuki Takeuchi
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