6月10日は「時の記念日」だ。
日本最古の歴史書『日本書紀』によると、西暦671年に天智天皇が、唐から伝えられた水時計の一種である漏刻(ろうこく)を建造したとされている。そして、漏刻と鐘鼓(しょうこ)によって日本で初めて時を知らせたとされる日が、現在の太陽暦に換算すると6月10日となることから、1920年に「時の記念日」が定められた。
日時計から水時計、機械式時計からクォーツ時計へと、ヒトの歴史と共に時計は大きく変化してきた。そして2015年、Appleがスマートウォッチ「Apple Watch」をリリースしてから、さらに新たな変化が訪れている。この記事では、時計の歴史を踏まえて、スマートウォッチは従来の時計と何が異なるのか、そして私たちの生活に何をもたらしたのかを述べる。まずは時計が時代と共にどのように変化してきたか、大まかな流れを見てみよう。
「神の時間」から「機械の時間」へー
時計はヒトの歴史と共に形を変えてきた
「時」という概念の誕生には諸説あるが、太陽の動きに従って影の位置や長さが動くことで、人類は「時間」の存在に気がついたのではないかと言われている。この発見に基づいて作られたのが日時計であり、紀元前4000〜3000年における古代エジプトの壁画には日時計が描かれていることもわかっている。(※1)
しかし曇りや雨の日、夜間にはまったく機能しないことから、紀元前1400年頃に水時計が考案された。しかし、水時計にも蒸発したり凍ってしまうなどの弱点があったことから、ローソクや油などを用いた燃焼時計、そして砂時計など、様々な工夫を凝らした時計が使用されるようになる。
その後、14世紀始めに西洋で機械式時計が発明され、より精緻(せいち)に時間が計測されるようになった。15〜16世紀には教会や修道院に加えて、各地の市庁舎広場や市場に機械式の時計塔が建てられ、より正確な機械式時計が普及していった。
一般の人が誰でもアクセス可能な場所に時計が設置されたことによって、市民は1日単位や1時間単位あたりの生活を意識し出すようになる。これは「時間意識の革命」とも言われる動きだった。かつて「時間は神が支配するもの」と考えられていたが、商人たちがその地域の経済・社会・政治を支配する道具として、機械式時計を管理するようになっていった。(※2)
その後、「時間」が金銭と等価なものとして見なされるようになり、"Time is money"という精神のもと、資本家は労働者を管理するようになる。そして、水晶振動子を用いたクォーツ時計の出現によって、さらに精緻に時刻の計測が可能になっていった。
この流れについて、ジャック・アタリの『時間の歴史』では「神の時間」から「機械の時間」、そしてより厳密で狂いのない「コードの時間」に変化していったと述べられている。(※3)
時間の歴史を通して、時計を手にする存在が、人間の行動を規定してきた様をも伺うことができる。なお、この本は1980年代に発刊されており、その後どのような時代が到来したかについては当然知る由もなかった。そして近年訪れたのが、スマートウォッチの時代だ。
※1 参考:織田一郎 『時計の科学 人と時間の5000年の歴史』(ブルーバックス、2017)※2 参考:セイコーミュージアムホームページ「時間とは何か」
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/story_03/
※3 参考:ジャック・アタリ『時間の歴史』(原書房、1986)
2015年、時計の新たな歴史が始まった
まだスマートウォッチが一般的なプロダクトではなかった2014年9月、Appleは「Apple Watch」の発売を公表し、翌年の2015年4月に発売を開始した。スマートウォッチは、プロセッサが搭載されている腕時計型の電子デバイスのことで、当時の報道を参照するに、市場は概ねこのリリースを好意的に受け止めていたようだ。(※4)その後、Appleの参入を機にスマートウォッチの認知度は一気に上昇。多くの時計ブランドが続々とスマートウォッチ事業に参入し、マーケット拡大のきっかけとなった。
MM総研の調査(※5)によると、2022年度の日本国内スマートウォッチ販売台数は390.3万台であり、2021年度比だと13.7%も増加している。メーカー別シェアをみると、そのうち 58.3%をAppleが占めているという。そして、健康管理意識の高まりを追い風にスマートウォッチ市場は今後も急拡大し、2026年度に600万台規模の販売に至ると予測されている。
スマートウォッチと従来の腕時計(デジタル時計含む)の大きな違いのひとつは、ヘルスケア・メディカル機能が搭載されている点だろう。たとえば、アクティビティトラッカーや心拍数モニターが搭載されたスマートウォッチを装着すると、そのデータが蓄積され、健康づくりへの指針とすることができる。最近だと、転倒を検知してくれる機能が備わったモデルも増えており、幅広い世代のニーズを捉えている。
また、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、モバイル機器を利用した健康管理や情報収集が注目されるようになった。これまで普及が進んでいなかった国においても、パンデミック以降は遠隔診療が普及している。ウェアラブル機器で収集した健康データを元に医師の問診を受け、適切な治療や投薬の指示を受けるサービスが現実のものとなりつつある。
その他にも、メールや電話の通知機能、音楽再生やGPS機能、各種決済機能などが搭載されているのも従来の時計との違いだ(電車の改札でスマートウォッチをかざして入場する人を見たことがある人は少なくないだろう)。いまや多くの人が知るスマートウォッチは、伝統的な腕時計の概念を超え、生活の便利さや快適さを提供する存在となり、時計の新ジャンルを切り拓いたとも言えるだろう。
※4 参考:CBS News 「Apple unveils Apple Watch」 (2014年9月9日)
https://www.cbsnews.com/news/apple-watch-announced-at-apple-2014-event/
※5 参考:株式会社MM総研 プレスリリース「2024年度には市場規模500万台突破と予想 2022年度通期 スマートウオッチ市場規模の推移・予測」
https://www.m2ri.jp/release/detail.html?id=577
従来の時計メーカーは、スマートウォッチの到来にいかに対応したのか?
気になるのが、従来の時計メーカーの動向だ。Apple Watchの発売が発表された2014年9月以降、ラグジュアリーで知られるスイスメイドの時計メーカーもこぞってスマートウォッチを発表した。2015年に開催された世界最大の宝飾と時計の見本市「Baselworld」のホットトピックはスマートウォッチだったと、CNETは報じている。(※6)
各社が提供しているのは、コネクテッドウォッチと呼ばれる、文字盤と秒針が存在するスマートウォッチだ。上記のCNETのリリースからは、TAG HeuerがGoogleおよびIntelと提携してAndroid Wearが搭載されたスマートウォッチを発表したことが確認できる。
その後、世界有数の時計メーカーであるSwatch Group(※7)は、2019年に傘下のブランドであるTISSOTから、アクティビティトラッカー機能などが搭載されたスマートウォッチである "TISSOT T-TOUCH CONNECT SOLAR"を発売した。
なお、TAG HeuerやSwatch Groupも含め、ラグジュアリーな時計メーカーは概ねスマートウォッチの技術開発には大きく注力せず、関与している場合でも、HermesとAppleの関係のようにライセンスや周辺アクセサリーを提供するようなケースが大半のようだ。従来の「時計」と、テックメーカーが主導して牽引する「スマートウォッチ」は棲み分けがなされていることが分かる。
※6 参考 CNET "The smartwatches that mattered at Baselworld 2015"(2015年3月20日)
https://www.cnet.com/pictures/the-smartwatches-that-matter-at-baselworld-2015/
※7 参考 2022年度のアニュアルレポートによると、Swatch Groupは傘下に17ブランドを有しており、各社を4段階の価格帯(Prestige and Luxury Range/High Range/Middle Range/Basic Range)に分類している。Tissotは"Middle Range"に分類されるブランド
https://www.swatchgroup.com/sites/default/files/media-files/SwatchGroup_RDG22_GB_web.pdf
スマートウォッチの光と影ーGoogleのFitbit買収から見えてくるもの
テックカンパニーが手がけるスマートウォッチには、先に述べた通りヘルスケア機能を中心として高性能な機能が搭載されており、時計の新ジャンルを切り拓いたとも言える。
冒頭で、「時計を手にする存在が、人間の行動を規定してきた」と述べた。ここで、テックカンパニーが私たちにどのような変化をもたらしたかを考えてみたい。
ひとつ言えるのは、広告収入を大きな収入源とするテックカンパニーにとって、スマートウォッチは格好の情報収集デバイスにもなり得るということだ。スマートウォッチとテックカンパニーとの関係について示唆深いのが、GoogleのFitbit買収にまつわる一連の動きだ。
Googleは2019年にスマートウォッチの開発で先行しているFitbitを買収した。(※9)そして、買収当時、各種消費者団体はこの動きを大きく警戒していた。(※10)なぜなら、Fitbitのデバイスは10年以上にわたって装着者の歩数、消費カロリー、実施したエクササイズなどの行動を記録しているからだ。
情報が過多な時代においては人間の限られたアテンション(注意)が資源になり、貨幣のような価値を持つという。これは、「アテンション・エコノミー」(※11)と呼ばれ、広告収入が大きな収入源であるIT企業においては、個人のデータを収集した上で人々を自社のサービスに長く滞在させられるかが鍵となる。各消費者団体が表明した声明は、個人のデータが収集されることへの懸念の表れだった。
Googleのデバイスとサービスを担当するリック・オストロウ氏は、"Fitbitの健康とウェルネスのデータがGoogleの広告に使われることはない "と述べている。しかし、テックカンパニーのアルゴリズムがユーザをデバイスに依存させ、メンタルヘルス悪影響を及ぼすということについては既にさまざまな場所で警鐘が鳴らされている。もちろん、スマートウォッチ自体は私たちの健康管理や生活の利便性向上に大きく寄与しているだろう。一方で、時計の歴史を紐解くと、時計を支配する者が人間社会をも支配してきた経緯は冒頭に記した通りだ。
この歴史を踏まえると、GoogleによるFitbit買収にまつわる一連のニュースは、テックカンパニーが我々の社会に大きな影響を及ぼし、支配し得る存在であることを象徴的に示しているとも言えるのかもしれない。
※9 参考:Time誌 「The Real Reason Google Is Buying Fitbit」(2019年11月19日)https://time.com/5717726/google-fitbit/
※10 参考:欧消費者団体(BEUC)は「消費者の利益を損ない、独占によりイノベーションを妨げる可能性がある」、オーストラリアの公正取引委員会に当たる競争・消費者委員会(ACCC)は「インターネット広告とヘルスケア市場で競争が阻害される懸念がある」と声明を発表していた。
https://maonline.jp/articles/why_googles_acquisition_of_fitbit_warned200618
※11 用語:情報が過多な時代においては人間の限られたアテンション(注意)が資源になり、貨幣のような価値を持つという意味。ノーベル経済学賞を受賞した心理学者・経済学者のハーバード・サイモン氏が提唱した。
まとめ
この記事では「時計」を管理する者が人間社会を支配してきた流れ、そして、スマートウォッチの登場と絡めて、テックカンパニーが私たちの「時間」を支配している側面について触れた。
ここで、ひとつ興味深いデータを紹介したい。国内時計製造大手のセイコーグループ株式会社は、生活者の時間意識に関する調査として「セイコー時間白書」(※11)を毎年公開している。
コロナ禍生活も3年目を迎えた2022年の調査では、「時間に追われている」と感じている人の割合が66.3%(前年比+4.5ポイント)、「1日24時間では足りない」と感じている人の割合は57.2%(前年比+2.1ポイント)という結果が得られている。現代を生きる人の多くが「限られた時間をどのように使うか」という命題に悩んでいるのかもしれない。
冒頭で引用したジャック・アタリ氏の『時間の歴史』には、「他者の時間によって押し流されるより、自己の時を生き、他者の機械によって繰り返される音楽を聴くよりも、自分自身の音楽を演奏することが望ましい」という記述がある。 まるで、SNSの発達や、時間に追われる現代社会を予見していたかのような言説だ。
改めて、6月10日の「時の記念日」に「自身がよりよく時を過ごすことはいかに可能になるのか」ということを少しだけ立ち止まって考えてみるのも良いかもしれない。
※11 参考 セイコーグループ株式会社「セイコー時間白書」(2022年6月7日)https://www.seiko.co.jp/timewhitepaper/2022/
文:Mizuki Takeuchi
編集:篠ゆりえ