よりよい未来の話をしよう

マライ・メントライン|わたしはSDGsを理解しているのか?または、SDGsとはそもそも理解可能な存在なのか?【連載 あえてSDGsを懐疑してみるのもまた一興】

「SDGsって知ってる?」と言えば、ネットの情報ストリームに身を浸している人のおおかたは「知ってるよ」と即答できよう。そこで「じゃあ、意味は?」と問えば、

【肯定派】私たちが暮らす環境を守り、私たちの精神性を向上させる指針ですよ!

【否定派】意識高い系がほざいてる、ちょーーーー偽善キラキラなお題目ですよ!

という答えに収束するだろう。いかにも雑ではあるが、実際、我々の社会はその8割超が、雑で漠然とした認識によって成立している(※個人の感想です)。それでいろいろ回ってしまっているんだからいいじゃんという説もあるが、そもそもSDGsとは何なのか、定義めいたものに接するにはWeb検索してWikipediaを見ればいいだけなので、そんなにしんどくない。だが逆に、WikipediaのSDGs項を読み込んで理解するのはかなりしんどい。理念にあれもこれもと欲張って盛り込んだゆえのややこしさがそこにある。個人的な理解としてSDGsとは、生物圏および文明の恒常性の維持と、それを支える知的認識の普及を目指すことがその本質だと認識している。言い換えれば、文化と生物のライフサイクル収支が破綻しないよう賢く生きましょうという話だ。

細分化された世界で、循環の意をはらむSDGsを真に語るのは難しい

家計を含め、経営というものに真面目に取り組んだ経験がある方ならば、収支をちゃんとさせておくことがいかに大変か、よくご存知だと思う。
その理由はもちろん多岐にわたるが、まずなんといっても知的視野が広くなくては駄目、という点が大きい。個別の会計的要素たちの積み重ねというだけでなく、自分の視界外のあれこれも含めた、システムとしてのお金の流れを全体視できる感覚こそ重要なのだ。
それは要するに世界の循環システムの理解に直結する思考なのだが、そうであればこそ、現代社会は末端的個人にとって厳しい環境と言える。

なぜ厳しいか?

それは、各ジャンルで容赦なく進行する「細分化」が理由となる。環境の情報過多化、それは個人の視野を無限に広げてくれるように見えなくもないが、実際には「裁量の限界」の枠をどんどん狭める材料となっている。たとえばひと昔前、個人のネットツールの主軸はパソコンであり、それを自作したり増強カスタムしたり、という余地が大きく存在した。ネット世界もDIYの延長じみた感覚に満ちており、HTMLタグをいじりながらWebページ作成に取り組んだ記憶を持つ方も多いだろう。そしてそのようなむき出しの作業感覚は、人を、通信や電脳世界の「成り立ち」「文脈」のリアルかつ根幹的な理解に導きやすかった。

翻(ひるがえ)って、個人のネットツールの主軸がスマホやタブレットとなったいま、果たしてそれらを自作したり、カスタムしたりするだろうか?SNSアカウントをその作り付けの仕様以上のものにしようと図るだろうか?否である。というか無理だ。ハードにせよソフトにせよ、それらはもう個人がどうこうできる範囲をはるかに超えて具現化し、強力に市場形成してしまった。まさに便利さニーズ追求の結果であり、もはや末端の個人は「input>output」という形で、大幅にバランスの崩れた情報消費生物としてネットワークに飼われているような状態となっている。

このような環境で「SDGsはいける!」「我々の生活習慣の積み重ねが世界構造を正す!」と、個人で説得力のある論を組んだり情報発信をしたりするのはそもそも難しい。その真摯な頑張りは、本人にとって不本意ながら、科学というより信仰に近い主張になってしまいがちだ。ゆえに、どちらかといえば冷笑的アンチにとって有利な言論構造が成立しやすい。これは、先端的な情報技術が現代的問題の真摯な議論を阻害するという、多数ある残念パターンの一例と言えるだろう。

ローマ帝国滅亡の背景は、政体よりも「社会インフラ」の破綻

またもうひとつ、不可逆的な「細分化」、言い換えれば「分業化」の進行は、そもそも文明の脆弱化をもたらす。ウクライナ戦争によって引き起こされた世界的な物流危機や経済混乱から、直観的にその絵図を思い描いた人も少なくないだろう。

英国の古代/中世学者であるブライアン・ウォード=パーキンズの著書『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』(白水社、2014年)の内容は、大変興味深く見のがせない。
古代ローマ帝国(西ローマ帝国)が滅亡したとき、「ローマを脅かす蛮族」として知られていた(そして実際に帝国を占領してその後釜に座った)ゲルマン人やガリア人の生活様式はすでに充分すぎるほど「ローマ文明化」していた。そして発掘される文化的プロダクトの品質も、滅亡前後でさほど変化が無い。要するに、「滅亡」という語から素人が想像するマッドマックスじみたカタストロフ的展開は実際には存在せず、まあそれなりの混乱やいざこざはあったろうけど、社会は比較的穏やかに古代から中世に移行したようだ、という通説が存在する。

これに対して著者は、自他の考古学的な発掘成果から異を唱える。確かに、発掘されるプロダクトでも王族貴族がらみの「高級品」の品質は帝国滅亡前後でさして変化がない。しかし一般住民の生活レベルは急降下した。生活用品の変化から露骨に窺(うかが)えるが、場所によってはしばらく、新石器時代に毛が生えた的なレベルにまで落ちてしまった、と。

これはローマ時代に成立・機能した広域流通システムの崩壊によるもので、おそらく帝国領全土で住民は「地産地消」的な生活パターンへの急速な移行を迫られた。しかし数百年にわたる高度な分業生産・経済システムの安定稼働に慣れ切った人々にとって、それは過酷すぎた。たとえば瓦造りしか知らず、代々それで不自由なく生活してきた人たちにいきなりどうしろというのか。もちろん、現実展望を直視して早期に自給自足サバイバルモードに入った人たちも居るだろうが、おそらく大多数は希望的観測と現実逃避思考でギリギリまで粘り、その結果、どうも悲劇的な生活崩壊が各地で発生したらしい。やはりローマ帝国の滅亡はリアル版マッドマックス世界を招来したのだ! 

なお西ローマ帝国の領土でも、当時滅ばず栄え続けた東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に近いエリアでは庶民生活のリカバーも早かったことが窺える。社会に真に影響を与えたのは政体の崩壊ではなく、流通や社会インフラ機能の停止なのだ。ちなみに、当時の「高級品」に質的変化が無いことは文明レベルの維持というよりも、上流階級がガードマンや私設軍隊つきの城塞じみたスペシャル居住エリアで暮らすようになったことの反映だろう。それっていまでも第三世界の諸国でありがちな話よね…というのがウォード=パーキンズ先生の主張の骨子である。これは我々の未来にも十分ありうる、そしてみな直視したがらないヴィジョンだ。

いまの言論空間で、前向きな「SDGs」は成立するのか

私の脳内の思考基盤に、このウォード=パーキンズ説がしっかり存在する。
社会の高度ネットワーク化・分業化とサステナビリティ(持続可能性)は、実は根本的なところで相性が悪い。というか高度ネットワーク化は、よりによって肝心な瞬間にサステナビリティを裏切る。サステナビリティが潰(つい)えれば、それに立脚する理念たるSDGsもたちどころに“絵に描いた餅”と化してしまう。SDGsという言葉を振り撒けば現実が変わってくれるわけではない。そのようなムーヴは、やはり現実から遊離した信仰に近い。

SDGsを前進させるためにも、まずウクライナ戦争を止めなければ! じゃあたとえばプーチンをどうする?という話になるとき、おおかたのソーシャルグッド大好き系な人たちは「レオパルト2A6戦車をもっとウクライナに送れ!」ではなく、「あなたの政治がいかに地球にも人にとっても破壊的であるか、ということを何らかの形でプーチンに訴える!」的なことを言うだろう。それは有効ではない。「お前を別の世界に送ってやるけど、マッドマックス的な世界と北斗の拳的な世界、どっちにするかは選ばせてやる」という、いま目の前にあるリアル現実原理にマッチした言説ではない。

敢えて言おう。どんな素晴らしい理念でも、電脳的に爛(ただ)れきったいまの言論空間では、性悪説に立脚した上でバトルプルーフ(※)されたものでないと通用せず、いわゆる「意識高い系」業界外の人心に食い込まないのだ。その経路で考えれば、西ローマ帝国圏の文明崩壊と生活崩壊は、そもそも性善説にすがる人心のウィークポイントがもたらしたものだ、と言えなくもない。

では、性悪説に立脚した素敵で前向きなSDGsの言説!それはいかに成立しうるのか?ということを私はいま、考えはじめてしまっている。

公の場で開陳してよさげな結論が出るかどうかは不明だ。

※ 用語:武器や兵器が実戦で使用され、その性能や信憑性などが証明されること。

マライ・メントライン
1983年ドイツ北部の港町・キール生まれ。幼い頃より日本に興味を持ち、姫路飾西高校、早稲田大学に留学。ドイツ・ボン大学では日本学を学び、卒業後の2008年から日本で生活を始める。NHK教育テレビの語学講座番組『テレビでドイツ語』に出演したことをきっかけに、翻訳や通訳などの仕事を始める。2015年末からドイツ公共放送の東京支局プロデューサーを務めるほか、テレビ番組へのコメンテーター出演、著述、番組制作と幅広く仕事を展開しており「職業はドイツ人」を自称する。近著に池上彰さん、増田ユリヤさんとの共著『本音で対論!いまどきの「ドイツ」と「日本」』(PHP研究所)がある。
Twitter:@marei_de_pon

 

寄稿:マライ・メントライン
編集:大沼芙実子