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世界を肯定的に捉えるために:ベルリン映画祭に見るドイツ映画のいま

©Alexander Janetzko/Berlinale2023

2023年の2月16日から26日にかけて、ベルリン映画祭が開催された。伝統的に「社会派」と呼ばれることが多く、LGBTQ+という言葉が世間に定着する遥か以前より「レズゲイ」映画を積極的に上映し、コンペティション部門で「男優賞・女優賞」という表現をやめて「演技賞」とするなど、いまでも先進的な映画祭であり続けている。

今年のオープニング・セレモニーでは「ベルリンは政治的な映画祭である」と映画祭関係者が明言し、ウクライナに対する連帯が表明された。客席にはウクライナ大使の姿があり、そしていち早く戦地でドキュメンタリー映画を監督したショーン・ペンの登壇に会場が沸く。続けてその作品の出演者に登場いただきましょうとのコメントがあり、背後の大スクリーンにゼレンスキー大統領が登場するサプライズとなった。大統領はヴィム・ヴェンダース監督による不朽の名作『ベルリン・天使の詩』(1987)を引き合いに出し、分断からの統一を果たしたベルリンで行われる映画祭の重要性を強調しながら、ウクライナが置かれた状況に対する理解と共闘を訴えた。

コンペティション部門の審査員の1人である俳優のゴルシフテ・ファラハニは、イランで起きている反スカーフ運動への共鳴を宣言し、「これは社会運動ではなく、革命なのです」と力強く語った。登壇者たちのスピーチでは、イランで投獄されていたジャファール・パナヒ監督やモハマド・ラスロフ監督の釈放を歓迎するコメントが続き、そして抑圧的なイラン政府への批判が相次ぐ。そこに民主主義と人権の重要性と、映画という芸術が果たしうる役割が繰り返し強調された。まさに社会派ベルリンの面目躍如たるオープニング・セレモニーであった。

このように社会/政治に意識的なベルリン映画祭であるが、そんなベルリンが選定する現在のドイツ映画はいかなる世界を描いているのだろうか。国際的に重要なベルリン映画祭を有するドイツという国が作る映画は、いかなる様相を呈しているか。メインとなるコンペティションでは、5本のドイツ映画が選出されている。その5本を通じ、ドイツ映画の現在地をみていきたい。

『Someday We’ll Tell Each Other Everything』

エミリ・アテフ監督はイラン、ドイツ、フランスにルーツを持つフランス国籍の女性だ。彼女はドイツと縁の深い作品を手掛けている。新作では、東西統一が実現した直後のドイツを背景とし、東西を分けていた国境付近に位置する旧東側の農地を舞台にしている。

『Someday We’ll Tell Each Other Everything』Pandora Film / Row Pictures

旧東側の若者たちは解放感に浸るが、年長世代は自由を歓迎しつつも制度変化に上手く対応できないもどかしさも抱えている。主人公の19歳の女性は自らの進路を決めきれずにいたが、孤独に暮らす40歳の渋い農夫に魅かれ、2人は保守的な地において人目を忍び激しいセックスに溺れていく。時代が良き方向に激変する高揚感と、そこから取り残されてしまう人々のやるせなさが、年の離れた男女のすれ違う感情という形で象徴されていく。

現代ドイツにおいて最も重要な出来事であった東西統一の実現から30年が経ち、改めて現在から振り返って、新たなドラマを紡いでみようという試みは、他国人からしても大変興味深い。西側に移住していた息子と数十年振りに再会する母親が言葉を失くして感動するエピソードは、分かっていても心を動かされずにはいられない。

しかし、映画全体としては、西側に合わせた農政改革に戸惑う旧東側の農家の姿が背景に退いており、その点が残念ではあった。保守的な地における年が離れた男女の愛の物語という通俗的なストーリーが主軸であったことが、映画をいささか凡庸なものに留めてしまった感は否めない。とはいえ、時代背景はやはり興味深い。

『Till the End of the Night』

クリストフ・ホーホホイスラー監督は、本作が6作目となる男性の監督で、ベルリンのコンペは単独長編作品としては初参加(過去に短編オムニバス作品で参加経験がある)。日本ではあまり紹介されていないが、カンヌ映画祭にも出品経験のある72年生の中堅だ。

本作はダークな雰囲気をまとった犯罪ノワール。ネット上で麻薬売買ビジネスを展開する裏社会の存在を摘発すべく、警察はトランスジェンダーの女性(生まれた性別は男性だが性自認が女性である人。以下、トランス女性)のダンサーを容疑者の所有するクラブに潜入させる。担当刑事と潜入捜査を託されるトランス女性は長年の愛憎関係にあり、仕事に私情が絡みまくったあげく、完全に収拾が付かなくなる。犯罪の解決よりも、2人の関係のもつれに重点が置かれる作品である。

『Till the End of the Night』Heimatfilm

注目されたのが、実生活でもトランス女性である俳優がトランス女性を演じている点だ。映画におけるLGBTQ+のキャラクターは当事者の俳優が演じるべきである、という指摘に対しては様々な意見が存在するが、本作のキャスティングは製作サイドからの1つの答えを提示していると言っていいだろう。コンペの審査員は、本作でトランス女性を演じたテア・エレに最優秀助演賞を贈り、先進的な映画祭の姿勢に応えている。

これはこれで祝福すべきことであることは言うまでもない。しかし、映画自体のクオリティが高かったかというと少しだけ疑問が残る。本作では物語を動かす契機となる犯罪(闇サイトのドラッグ仲介)のインパクトが弱く、そして衝突と熱愛を繰り返す男女の共依存的関係も反復的で観客の関心を持続させる力を欠いている。何よりもトランス女性のキャラクターの背景が書き込み不足で浅いことが致命的だ。

正直言って受賞には最初驚いたのだが、映画のストーリーに対する当事者性を伴ったトランス女性俳優の受賞という結果の意義を考えると納得できる気もする。しかし映画の成り立ちが作品のクオリティを正当化するわけでもない…。ああ、映画というのは実に厄介なシロモノだ。もっとも、映画のクオリティとは別の次元であれこれ思考を刺激されることこそ、映画祭の魅力なのだ。ベルリンに挑戦されている気分になってくる。

『Ingeborg Bachmann – Journey into the Desert』

42年生のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督は、世界的な存在の女性の監督である。70年代にドイツ映画が多くの才能を輩出した「ニュー・ジャーマン・シネマ」と呼ばれる潮流に属する1人であり、政治と何らかの関わりを持つ個性豊かな女性を主人公とした作品を作り続け、いわゆる「女性映画」の第一人者であるとも言える。

『Ingeborg Bachmann – Journey into the Desert』Wolfgang Ennenbach

20世紀初頭の革命家の姿をソリッドに描いた『ローザ・ルクセンブルグ』(1985)や、ナチの所業を冷静に批評した哲学者に焦点を当てた『ハンナ・アーレント』(2012)など、重要作品に事欠かない。過去作の再上映を含め、日本でも再評価の機運を期待したい存在である。

新作では、50年代欧州文壇の著名人であったオーストリアの女性詩人インゲボルク・バッハマンを主人公に取り上げている。バッハマンはスイスの男性作家と愛し合うが、男性は抑圧的な側面を徐々に発揮して愛はほどなく消滅する。バッハマンは彼との関係に苦しみ、精神を病む。そして、やがては男性の抑圧を脱し、自身を解放していく過程が描かれていく。

過去に実在した人物や出来事に、今日的に重要な主題を見出して映画化するフォン・トロッタの本領が発揮されている作品である。主演のヴィッキー・クリープスの繊細な演技が際立ち、主人公が体現するフェミニズムの主題がストレートに伝わる重要作であると言えるはずだ。

しかし、ドラマが少し弱い。悪化する男女の関係に新味が薄く、予定調和な展開であることは否めない。フォン・トロッタ作品の中で最上の部類に属する出来では、残念ながらないだろう。

とはいえ、ここで立ち止まって考えてみると、悪化する男女の関係に新味が薄いと感じたのは、男性による抑圧が陳腐化するほど当たり前の形で存在し続けたからであり、そこに新しい物語など無いのだとフォン・トロッタが指摘しているのかもしれないとも思えてくる。パターン化し制度化してしまった男性による抑圧を、新たな主人公のもとで語り直すという試みであるのかもしれない。そう考えると、本作の見方も変わってくる。

そしておそらくバッハマンの詩に立ち返ることが重要なのだろう。作中でも頻繁に引用される彼女の詩を十分に理解したとは言い難いので、きちんと読んでみたい。

さすが巨匠、たくさん考えさせてくれる。

『Music』

アンゲラ・シャーネレク監督は現代ドイツで最も重要な存在の1人である。抽象的で先鋭的な内容を持ち、ゴダールに近い作家性を持つ存在であると言っていいかもしれない。ドイツにはゼロ年代に新しい映画作家たちが台頭した「(新)ベルリン派」と称される潮流があり、シャーネレク監督もその1人に挙げられる。映画と現代アートを繋ぐアーティストでもあり、実験性の強い作家として見る者に刺激を与え続けている監督である。

新作も、非常に歯ごたえのある内容であった。一見、何が起こっているのか全く分からない。エピソードが断片的に並べられており、誰が誰なのか、どういう物語が進行しているのか、そもそも物語があるのか、理解は容易ではない。予備知識無しで見たとしたら、全くお手上げとなってしまう作品だ。

しかし、本作がゆるやかに古代ギリシャ悲劇の「オイディプス王」をベースにしていることを知っていると、おぼろげに描かれていることが見えてくる。「オイディプス王」とは、父である王を殺し、母である妃と結婚したオイディプスの悲劇である。息子に殺される神託を受けた父は、産まれた赤子を山に捨てて殺させるが、赤子は生き延びて他国で育つ。そして実父であることを知らずに殺害し、実母であることを知らずに結婚し、子をもうける。事実が明らかになり、母は自害し、オイディプスは針で自分の目を潰し盲目となる。

『Music』では、上記の物語がそれとははっきりと分からない形で語られていく。序盤に赤子が登場し、その赤子の成長した姿であろう青年も登場する。母親が赤子のくるぶしにブローチを刺したという原作悲劇のエピソードに呼応するかのように、成長したその青年が傷付いた自分のくるぶしに丁寧に包帯を巻くシーンがある。その青年は誤って人を殺してしまい、刑務所に入る。刑務所の女性看守と親しくなり、出所後に一緒になる。その女性は崖から飛び降りて自害する。誤って殺したのが父で、刑務所看守は母だったのか、と緩やかに想像することができる。

『Music』faktura film / Shellac

しかし、ほとんどセリフが無く、時間の経過は明示はされない。数年が経過している中でも主人公たちは年を取らず、状況の説明も一切排されているため、一貫した物語として理解することは非常に難しい。むしろ、それは意図されていない。ただ、誕生と死が無造作に、そして確固たる形で存在する。

物語を進行させる目的とは別の次元で、各シーンの美しさとダイナミズムが映画自体の力強さを決定付けている。

物語を自分の脳で考え過ぎてしまうが故に映画への集中力が散漫になり、より感覚的に映画を受け止めればよかったという反省が残るが、ベルリンで鑑賞した中で最も印象の強い作品であった。現代においてどうしてオイディプスを取り上げたのか。そして劇中の青年が(オイディプスと違って)失明せず、フォーク的でオペラ的な曲を歌い続ける理由は何か。現代ドイツといかなる接点を見出しうるだろうか。歌は、祝福として響き、映画は悲劇としては終わらない。オイディプスだけでなく、音楽の作用を理解する別の補助線がここに必要になるだろう。

なかなか一度の鑑賞では受け止めきれないのだが、映像と音響に感覚を「持っていかれる」特別な体験だ。文字化が難しい。ここまで芸術度が高い作品であるならば、日本での上映もあり得るかもしれない。再見してから続きを書かねば。

そしてこの大胆極まりない作品に対し、審査員は脚本賞を授与した。審査員もまたアーティスト集団なのであり、実に大胆であり、その碧眼に敬服する。

『Afire』

前述した「(新)ベルリン派」の潮流に属するとされているもう1人の存在が、クリスチャン・ペツォールト監督だ。シャーネレクとともに現代ドイツ映画を牽引する存在であるとも言える。日本でも公開された前作『水を抱く女』(2020)ではギリシャ神話に登場する水の精 ウンディーネをモチーフにした現代の物語を描いたが、前作の水に続き、新作では火がモチーフのひとつとなっている。

『Afire』Christian Schulz / Schramm Film

新人の小説家青年が2作目を書き上げるべく、写真家志望の友人青年の別荘を訪れる。しかし別荘には美しい女性の先客がおり、友人も遊んでばかりで、小説家青年は全く執筆に集中できない。そして女性の恋人男性も現れ、小説家青年は苛立ちを深めていく。折しも、近隣の山では山火事が発生し、遠くの空が赤く染まっていた…。

という物語。前半は軽妙でユーモラスなロマンティック・コメディのテイストを備えたバカンス映画として楽しめ、そして後半では主人公の暴走するエゴが悲劇を誘発してしまい、スリリングな展開となる。エゴが肥大している主人公は、観客にギリギリ嫌われないキャラクターであるという設定が上手い。そして編集のテンポが絶妙で、場内からはクスクス笑いが絶えない。難解さとは無縁でなかったペツォルト監督としては珍しくエンターテイニングであり、その演出は洗練の域に達している。軽やかなタッチで現代人のモラルを問うた名匠エリック・ロメールを彷彿させるタッチである。

楽しんで見られる小品の姿をしているが、細かく高度な技術が凝縮された逸品だ。様々な形で感情と愛情が交差し、劇中で論じられる小説や写真などのアートへの向き合い方も興味深い。そして青年から大人への脱皮期の丁寧な心情描写が、映画に豊かな奥行きをもたらす。精神的な成熟を手にするには、時に高い代償を伴うことがある。強すぎるエゴやそこから派生する偏見意識は必ず本人に悲劇的な報いをもたらすだろう。赤く燃える山は、美しい雪のような灰を降らせ、美と災厄の双方を象徴する。それは主人公の心情に重なっていく…。

現代の教訓譚として軽さと重さのバランスが絶妙に取れている本作は、見事コンペティション部門の銀熊賞(2等賞)を受賞した。

以上がコンペのドイツ映画5本である。5作品をもって、現在のドイツ映画の傾向をくくって語ることは出来ないが、リベラルな主題を有していたり、芸術的に突出していたりなど、いずれの作品も選出に必然性が感じられ、現代世界との接点を描こうとする意欲に満ちている。また、若い世代を主人公とする作品が目立ち、青年層の内省を通じて未来を肯定的に描く姿勢が共通している印象を受ける。監督のキャリアに関わらず、総じて映画が良い意味で若い。そしてダイナミズムを感じる。この厳しい時代において、世界を肯定的に捉える姿勢がいかに尊く思えることか。そこには綺麗ごとに堕ちない洞察と技量が必要であることは言うまでもない。作家たちは、慎重なストーリー・テリングを通じ、世界に対峙する成熟した姿勢を陽に暗に描いていく。

『Someday We’ll Tell Each Other Everything』の若い女性は、悲痛な体験を経て、自由な西側世界に飛び込んでいくだろうし、『Till the End of the Night』のトランス女性は自立した存在として歩んでいくだろう。『Ingeborg Bachmann』の詩人の魂は解放され、『Music』の青年は生を高らかに歌い上げる。『Afire』の小説家は大人になる準備を整えていくだろう。これらは単なるハッピーエンドとは異なり、個の強い意志に信頼を置くものだ。そしてこれら肯定的な世界観は、「政治的映画祭」に対する芸術サイドからの回答であるのかもしれない。

このような観点で、今年のコンペのドイツ映画は充実していたと言っていいはずだ。5本のうち3本が受賞を果たしたことも、それを証明しているだろう。

さて、1本だけコンペからの脱線を許してもらうとして、「パノラマ部門」で上映されたドイツ映画が滅法面白かったので、最後に紹介したい。

『The Teachers’ Lounge』

トルコ系ドイツ人男性のイルカー・チャタク監督による、おそらく4本目の長編作品。タイトルはずばり「職員室」。

小学校の若い女性教員が主人公の物語。彼女はうまくクラスをコントロールしているようであり、それなりに楽しさと厳しさを交えた授業を行っている。しかし学校では盗難事件が多発し、移民系の生徒が疑いをかけられることから、日々の歯車が狂っていく。職員室でも盗難が発生しており、主人公はパソコンの録画機能をオンにして、わざとサイフを盗られやすいかたちで机に残して席を立つ。主人公が戻り、サイフを確認すると金が抜かれている。パソコン画面に映っている姿の人間に疑いをかけると、その人物は猛然と反発し、盗撮の違法性も訴えてくる…。

リューベン・オストルンド監督の作品世界にも共通するが、ここでも「正しい」行動を起こしたつもりが、加速度的に事態が悪化してしまう状況が描かれる。そして少しでもごまかそうとする態度を取ろうものなら、たちまち生徒たちの反発を受けてしまい、クラスは制御不能に陥っていく。作品を通じてテンションが全く落ちず、一気呵成のサスペンスに惹き込まれずにいられない。

『The Teachers' Lounge』Alamode Film

こどもは怖い。先生たちのスキャンダルを生徒新聞が追求する。こどもたちは冤罪を騒ぎ立て、自身が移民系である男性教員は人種差別者と言われて怒りを抑えられない。しかし、生徒(こども)を教員(大人)たちが一方的に抑え込むことは、現代では許されない。いや、ある程度までが教育だとして、許されない一線はどこで引かれるのだろうか。学校はまさに大人社会の縮図であり、あらゆるモラルの凝縮された場となる。

俳優陣は大人もこどもも素晴らしく、圧巻の見応えを誇る『The Theachers’ Lounge』がコンペ入りを逃したことは残念だ。しかし5本もドイツ映画がコンペに入っているので、それ以上は無理だったのだろう。選定チームの苦悩が浮かぶようである。しかし本作は「パノラマ部門」で受賞を果たしており、そしてこの面白さであれば日本公開も果たすだろう。期待して待ちたい。

おわりに

2023年のベルリンは、例年以上に貴重な最新ドイツ映画が見られた気がする。特にシャーネレクとペツォルトの充実振りには目を見張る思いであり、先鋭的な芸術活動を続ける2人を擁するベルリンは独自の存在感を発揮したと言える。「政治的な映画祭」であることを明言したオープニング・セレモニーだったが、芸術としての達成度をおろそかにしては、映画祭としては本末転倒になってしまう。映画芸術を極めつつあるシャーネレクとペツォルトは、「政治的な映画祭」であるベルリン映画祭の「芸術的な映画祭」の側面を救った存在となった。いや、「救った」という言葉に語弊があるとしたら、政治と芸術の間を繋いだ、と言い換えたらいいだろうか。自国の映画に偏り過ぎないのが国際映画祭に求められるつつましさであるとはいえ、今年のベルリンとドイツ映画の関係は実に鮮やかであった。

そしてベルリン映画祭について書きながら最高賞に言及しないのも片手落ちなので、最後に金熊賞(グランプリ=1等賞)受賞作にも触れておこう。

金熊賞はフランスのニコラ・フィリベール監督による『On the Adamant』というドキュメンタリー作品が受賞した。精神障害を患う人たちを対象としたデイケア施設が舞台となり、パリのセーヌ川上に浮かぶその施設に通う人々にキャメラを向けている。症状の軽重は様々で、人々の語りは時にユーモラスであり、時に支離滅裂であるが、画面に人間味が充満する暖かい作品である。この受賞も、まさにベルリンらしいと言えるだろう。

2022年のベネチア映画祭では『All the Beauty and the Bloodshed』(22)というアメリカのドキュメンタリー作品が最高賞を受賞しており、2023のベルリン映画祭でもドキュメンタリー受賞が続く結果となった。ついでに言えば、インディペンデント映画の登竜門と呼ばれ、2023年1月に開催されたロッテルダム映画祭でも、コンペのグランプリがドキュメンタリーであった。有名映画祭でドキュメンタリーの受賞が続いていることは、これまたとても興味深い傾向なのだけれども、それはまた別の機会に。

(と、ここで終了して原稿を提出しようとしたら、アカデミー賞の国際長編映画賞をドイツ映画の『西部戦線異常なし』が受賞したとの報せが。現在Netflixで鑑賞可能であり、日本でもドイツ映画に対する注目度が上がるきっかけになれば!)

矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。

 

寄稿:矢田部吉彦

編集:おのれい