よりよい未来の話をしよう

「人それぞれ」と私たちを突き放し、「キャンセル」で人をコントロールする社会

f:id:tomocha1969:20220307155229p:plain

よく耳にする言葉「人それぞれ」

最近、大学生と話していると「人それぞれ」という言葉をよく耳にする。テーマを設定して議論する授業でも、結局のところ「人それぞれだから…」となってしまい、盛り上がりを欠くことも多い。
大人になっても「人それぞれ」という言葉はよく使われる。ある団体を続けるべきか否か、結婚するべきか否かといったことを話していると、最終的に「人それぞれ」という結論に落ち着くことがある。この短い論考では「人それぞれ」という言葉が多用される日本社会の実情について考えてみたい。なお、本稿は執筆者の近著『人それぞれがさみしい――「やさしく冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)をもとにしている。

重宝される「人それぞれ」のコミュニケーション

「人それぞれ」という言葉には、個々人の考え方や主義・信条を受け入れているような温かさと、相手を突き放すような冷たさが同居している。ある人の選択や決断に対して多くを言わず、「人それぞれ」と認める姿からは、多様性を尊重する人間像が思い浮かぶ。その一方で、こちらから何かの話を振った際に「人それぞれだから」と言われてしまうと、どことなく突き放されたようなさみしさを感じる。では、なぜこのような言葉が流行ってきたのだろうか。
現代社会を生きる私たちは、幼い頃から個々人の考えや多様性を尊重するよう教えられてきた。結婚する・しないを規範で縛る時代は、もはや過去のものになっている。性的な多様性もかつてないほどに尊重されている。「女性ならば」「若者ならば」などと何らかのカテゴリーを持ち出して誰かに意見を述べることも容易ではない。
個々人の考えや多様性を尊重する社会とは、相手の考えに否定的・批判的意見を言いづらい社会でもある。誰かが表出した意見はいったん受け止めるというのが個々人を尊重する社会の流儀なのである。

f:id:tomocha1969:20220307155327p:plain

とはいえ、会話をする相手を否定しないことはなかなか難しい。明確な否定表現や「べき論」は避けるといった形である程度の予防はできるものの、多くのコミュニケーションにおいて、相手を否定したかどうかは曖昧なままだ。究極的には、ある言葉が相手を否定したかどうかの判定は、受け止める相手の気持ちに委ねられている。

こうした状況はなかなか厄介である。私たちは、コミュニケーションの正解が見えない中、相手の感情を損なう表現を避けつつ、その場を穏便にやり過ごすよう求められているのである。このようなときに重宝されるのが「人それぞれ」のコミュニケーションだ。

「人それぞれ」という言葉は、相手の意向を損なわずに受容するという難題に対して、最適解を提供してくれる。相手の考えに違和感を抱いたとしても、「人それぞれ」と言っておけば、ひとまず穏便にその場を取り繕うことができるのだ。

「人それぞれ」のコミュニケーションの冷たさ

しかし、個々人のさまざまな選択を「人それぞれ」と受け入れる社会は、優しいようでいて、じつのところ冷たい。たとえば、ある話題についてじっくり話したいと考えていたとしよう。こうしたときに「人それぞれ」という言葉が発せられると、なんとなく距離をおかれたような気になる。
人びとの選択を「人それぞれ」と受容する社会は、その言葉が発された瞬間から、対話の回路を遮断するはたらきをもつ社会でもある。したがって、「人それぞれ」のコミュニケーションが横行する社会で、対立や葛藤を経ながら強靱な関係を築いてゆくのは難しい。

仮に、相手の選択や決定に不満があったとしても、それらは「人それぞれ」という言葉に飲み込まれ、表に出てくることはない。「人それぞれ」という言葉は、互いに踏み込むべき領分を制約し、つながりから退かせるはたらきをもつ。

加えて、「人それぞれ」のコミュニケーションには、個々人の選択の帰結を自己責任に回収させる冷たさもある。さまざまな選択は「人それぞれ」自由だと言っても、多くの人は心のどこかで「望ましい結果」を共有している。

たとえば、結婚に関する意識調査の結果を確認してみよう。結婚についての一般的な意識を尋ねると、多くの人は「人は必ずしも結婚しなくてもよい」と回答する。しかしその一方で、個々人の結婚願望を尋ねると、大半は「いずれは結婚するつもり」と答える。つまり、「結婚する・しないは“人それぞれ”自由だけど、私は結婚したい」と考えているのだ。
では、未婚化が進む中、どのような人が結婚に至る確率が高いのだろうか。これについては、男性は経済力の高い人、女性は容姿に恵まれた人という「定番」とでも言うような結果が見られる。つまり、結婚自体は「人それぞれ」と語られる一方で、結婚の可否には格差が内包されているのだ。

さまざまな選択を「人それぞれ」と認めたとしても、「人それぞれ」に選んだ結果は、決して平等にはならない。なるべく相手に立ち入ろうとしない「人それぞれ」の社会は、個々人の選択を許容するという点では優しい社会である。その一方、選択の結果生じた格差については、「それぞれ」の選択ということで自己責任に帰する冷たい側面をもつ。

「人それぞれ」にはならない個々人の選択:キャンセルと迷惑たたき

f:id:tomocha1969:20220307155420p:plain


さらに言えば、私たちの社会は、さまざまなものごとを「人それぞれ」と認めてくれるほど寛容でもない。むしろ、タブーに満たされていると言える。
もともと「人それぞれ」のコミュニケーション技法は、多様性を尊重し、相手を否定したり、誰かと対立したりする状況を回避するものとして重宝された。これは裏を返せば、現代社会では、多様性の原理に反したり、相手や社会の利益・感情を損なう行為に対しては、厳しい罰が加えられる、ということを意味している。

多様性の原理に反する言説については、今さら言うまでもないだろう。人種、ジェンダー、性的指向、容姿など、さまざまな面で多様性の原理に反した人は、とたんに苦境に立たされる。

「キャンセル・カルチャー」という言葉をご存じだろうか。アメリカ由来の言葉で問題を起こした人物や企業をキャンセルする、つまり解雇や不買運動を行う現象を指す。2021年に行われた東京オリンピックでは、ジェンダーなど多様性の原理に反したと見なされた人が次々と表舞台を去って行った。

相手や社会の利益・感情を損なう行為――ここでは分かりやすく、人や世の中に迷惑をかける行為としておこう――このような行為にも厳しい罰が加えられる。新型コロナウイルス感染症が流行りだしたころ、「自粛警察」という言葉をよく耳にした。意味合いは、世の中に迷惑をかけた(かけそうな)人や団体への自主的な取り締まり、というところだろうか。

コロナ禍では、自主休業していた駄菓子屋さんに店を閉めるよう求める張り紙を貼ったり、パチンコ店に嫌がらせをしたり、という行為が発生した。世の中が自粛ムードにある中、空気を読まず周りに迷惑をかけるのは許せないという発想だ。

世の中に迷惑をかけた人を罰する動きは、芸能人の謝罪会見にもうかがえる。2010年代半ばあたりから不倫した芸能人の謝罪会見が急増した。本来、不倫は個人的なことであり、家族を含む当事者で話し合えば済むことだ。しかし、ひとたび有名になるとそれでは許してもらえない。
ここで注目したいのは、会見を開く人の多くが謝罪の際に、「迷惑をおかけしました」「お騒がせして申し訳ございませんでした」と言うことだ。この表現から、彼・彼女らは自らの行為で世の中を騒がせ、迷惑をかけたことを謝っていると推察される。不倫をした芸能人の中には、露骨に表舞台から外され、キャンセルの憂き目に遭う人も少なくない。

「人それぞれ」の社会は、表面上はいろいろな考えや態度を認めてくれる温かい社会に見える。しかしその裏側ではキャンセルをちらつかせつつ、人びとの行動を厳しく統制しているのである。

集約される思い:激しくなる迷惑たたき

f:id:tomocha1969:20220307155515p:plain


とはいえ、皆さんの周りにはそんなに不満を抱いている人はいないのではないだろうか。キャンセルのうねりを引き起こすには、相当多くの人を動員せねばならない。そのような呼びかけをするのは簡単ではない。では、なぜ、私たちの社会はキャンセルを引き起こすほどの動員を実現できるようになったのだろうか。その答えは、皆さんが常に持ち歩いているものにある。
皆さんはおそらく携帯電話またはスマートフォンをもっており、それらの端末はインターネットにつながっているだろう。インターネットを使えば、同じ考えを持つ人を動員することは容易である。簡単に説明しよう。

皆さんは確率1000分の1と聞いてどのような印象を抱くだろうか。おそらく、かなり少ない確率という印象をもつだろう。仮に、あなたが1000人に1人しか抱えないような悩みをもっていたとしよう。このようなときに、おそらく身の回りで同じ悩みをもつ人を探すのは大変なはずだ。しかし、インターネットを使えば、同じ悩みを抱く人はおそらく簡単に見つけられる。
なぜなら、インターネットには日常出会う範囲とは比較にならないほど多くの人が控えているからだ。1億人が日本語でインターネットを使えると仮定すると、その1000分の1は10万人にも上る。インターネットは物理的距離と無関係に対象を検索し、アクセスできる特性をもつゆえ、端末をいじれば、潜在的に意見を共有する10万人に簡単に到達できる。
この機能が悩みの解消に使われていればそれもよかろう。しかし、インターネットは「善い」思いも「悪い」思いもフラットに結びつけてしまう。そのため、何かを引き起こした人をキャンセルする活動も容易に大きなうねりに変えることができる。かくして、「人それぞれ」の社会を生きる私たちに向けられた監視のまなざしは、より高精細になる。

キャンセルのまなざしにおびえる私たちは、自ら発する表現をなるべく無難なものに整えつつ、「人それぞれ」の殻に閉じこもり、自らの身を守っている。このような社会で「生きづらさ」が強調されるのも、必然と言えよう。

f:id:tomocha1969:20220307155558p:plain

石田光規
1973年生まれ。2007年東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学(社会学博士)。著書に『人それぞれがさみしい――「やさしく冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)、『孤立の社会学――無縁社会の処方箋』『つながりづくりの隘路――地域社会は再生するのか』(勁草書房)、『郊外社会の分断と再編――つくられたまち・多摩ニュータウンのその後』(編著、晃洋書房)、『友人の社会史――1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)

 

寄稿:石田光規
編集:おのれい