ベルリンから東京へ
2年振りにベルリン映画祭に出かけてきたので、本コラムではその様子を詳しくレポートするつもりだった。素敵な作品を多く見ることができて、観客を入れて開催される国際映画祭の醍醐味も十分に味わい、充実したベルリンだったので書きたい材料はたくさんある。
原稿の構想を練りながら帰国すると、水際対策としての6日間のホテル隔離が待っている。ただ、これは覚悟していたことなので、しょうがない。3食冷たい弁当が配られ、電子レンジがないことに閉口もしたけれど、まあしょうがない。そして、ホテルの部屋から1歩も外に出ることが許されないので、自然と、目の前にあるテレビと向き合うことになる。
そこで流れていたのは、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースだった。
「ソーシャル・グッド」や「SDGs」を意識した「あしたメディア」において、戦争はそれらのポジティブな概念を吹き飛ばす最悪の事態であるはずだ。僕もあまりのことにホテルで震え続け、ベルリンのレポートを書いている気分ではなくなってしまった。
ウクライナへの想いと、突貫作業の開始
真っ先に思い出したのが、ウクライナのヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督のことだ。2019年に作られた『アトランティス』を東京国際映画祭のコンペティション部門に招聘し、主演俳優とともに来日もしてくれた。『アトランティス』は、ロシアとの紛争を背景にしたディストピア設定の物語で、まさにウクライナはロシアと戦争状態にあることを2019年の時点で伝えてくれた作品だった。兵士役の主演俳優は本物の退役兵士であり、上映後のQ&Aでは作品の内容よりも対ロシアの状況の酷さを日本の観客に訴えていた。Q&Aはロシア語で進行していたのだが、「敵国語で話さなければいけないことが辛い」と発言していたことも印象的で、僕も準備段階での配慮の足りなさを反省したのだった。
彼らは大丈夫だろうか。戦争は今年始まったのではなく、クリミア併合の2014年以来ウクライナは戦争状態にあることを映画で訴えてきたヴァシャノヴィチ監督こそは、現在もっとも重視されるべき監督ではないだろうか。2021年に発表された新作『リフレクション』もまた、ロシアとの戦闘における凄惨な状況を描いたものだった。ヴェネチア映画祭のコンペティション部門に選ばれたものの、日本での上映は実現しておらず、東京国際映画祭を離れていた僕は地団駄を踏んだものだった。
そんな時-正確に言うと3月2日だ-、『リフレクション』の権利を扱う海外のセールス・エージェント「New Europe Film Sales社」から、同作の上映を通じてウクライナを支援しないかとのメッセージが届いた。これだ、と思った。旧職場である東京国際映画祭の元同僚たち9名とは、いざという時に共に活動する縁を維持しており、みんなの意見を募ってみると、「ぜひやりましょう」という。よし、やろう。
ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督の『アトランティス』と『リフレクション』を特別上映し、クラウドファンディングで資金を募り、上映経費を上回った額をウクライナ映画人に寄付しようという仕組みを作ることにした。ヴァシャノヴィチという才能を改めて日本で紹介すること、その驚くべき美学に接し、恐ろしい内容から現実をイメージする体験を通じて映画とウクライナへの思いを深め、その先にはウクライナの映画人を支援する寄付ができる。この仕組みこそは、映画に携わってきた僕らスタッフのやりたいことであり、できることであるはずだ。
外国映画を日本で商業公開する場合、作品の権利を扱うセールス会社から日本での上映権を購入する。しかし、映画祭での限定上映の場合はその限りではなく、新作であれば(作品のプロモーションとして)無料で上映できることもあるし、いくばくかの「上映料」をセールス会社に支払い、複数回の上映を認めてもらうケースもある。そして今回の緊急上映に関しては、セールス会社は上映企画者に映画料を徴求しないと表明している。映画を提供する側もウクライナ芸術の危機感に苛まされての行動だ。僕らも意気に感じ、まずは2作品の権利の確認をし、各2回ずつの上映の了解を取り付けた。
この企画はとにかくスピード勝負だ。3月中には上映を実施したい。つまりほぼ2週間の間に、劇場を決め、日本語字幕翻訳を行い、上映素材を制作し、クラウドファンディングを立ち上げ、宣伝しなければいけない。突貫だ。
まずは、渋谷の「ユーロライブ」の予約がとれた。「ユーロライブ」は、もとは映画館であり、いまは映画の上映もできるイベントホールとして貸館されている。月末は3月30日(水)の1日だけ空いていたので、そこを押さえる。希望は複数日の上映なので、近隣の会場を探すと、同じビルの中の「ユーロスペース」が協力してくれることになった。いうまでもなく「ユーロスペース」は通常興行を行っている映画館なので、夜の枠を空けてくれるのは本当に特例だ。3月29日(火)と31日(木)の夜、2つ上映枠を空けてくれることになった。
これで上映スケジュールが組める。
早速次のように決める:
29日(火)19時半『アトランティス』@ユーロスペース
30日(水)18時『アトランティス』/21時『リフレクション』@ユーロライブ
31日(木)19時半『リフレクション』@ユーロスペース
『リフレクション』は日本語字幕の翻訳をしなくてはいけない。かねてからお世話になっており、最近では「リチャード・フライシャー特集」を仕掛けたりして映画ファンを楽しませてくれている「マーメイドフィルム社」のM社長が協力しようと申し出てくれる。宣伝まわりは、20年以上前にフランス映画祭の事務局で苦楽をともにして以来の旧友であるT社長率いる「フリーストーンプロダクション社」が引き受けようと言ってくれる。ご縁の大切さに涙が出る。
この流れで、東京国際映画祭とも「協力」することになった。21年3月末に映画祭を離れてからもうすぐ1年というタイミングでコラボすることになろうとは…。感慨深い。『アトランティス』の字幕は映画祭で製作しているし、もろもろの点で動きやすくなることは間違いない。ありがたい。
クラウドファンディングは、モーションギャラリー社にお願いすることにする。寄付という機能と、入場券という機能を、混乱なく併存させる仕組みに頭を悩ませる。上映を見たい人は、寄付しつつ希望の上映回を指定してもらう形とし、上映は行けないけれど寄付はしたいと思ってもらえる人に向けたボタンも用意する。この仕組み作りは神経をつかう。何とか3月14日にはプレスリリースを出し、クラウドファンディングも同日にスタートしたいので、急ピッチで準備を進める。
というように、おおよその形が見えてきたのが、3月8日。思い付いてから6日間でここまで決まるとは、なかなかのスピードで進めているのではないか。とにかく仲間たちの熱量がハンパでなく、我先にとメールが飛び交い、物事がガシガシ決まっていく。
この原稿は9日に入稿なのでこれ以上は間に合わないのだけれど、コラムの掲載時には詳細は決まってクラウドファンディングも始まっているはずだ。これを書いている時点ではまだオープンしていないけれども、クラファンのURLは決まっている。ああ、これが読まれる頃にはきちんと設計ができていますように。
▼「ウクライナ映画人支援上映:ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督作品上映会」
https://motion-gallery.net/projects/standwithukraine
なんとか、なんとか、一人でも多くの方の参加を祈るばかり。
ヴァシャノヴィチ監督について
さて、改めてヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督のプロフィールを紹介しよう。
キエフ西部に位置するジトーミルという地で1971年に生まれ、キエフの国立芸術大学を卒業し、ポーランドでアンジェイ・ワイダが創設した映画学校でも学んでいる。最初はドキュメンタリー監督として頭角を現し、2004年の短編ドキュメンタリーがフランスの有名な短編映画祭であるクレルモン・フェラン映画祭で受賞する。そして長編ドキュメンタリー『PRYSMERK』が2015年のオデッサ映画祭で受賞する。これに先んじる2012年に『Business as Usual』で劇映画の長編監督デビューを果たしている。
ヴァシャノヴィチ監督の名前が一躍世界規模になったのは、なんといってもプロデューサー・撮影を務めた『ザ・トライブ』(14/ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督)によってだろう。カンヌ映画祭「批評家週間」でプレミア上映されるや、当年のカンヌ最高の作品であるとのクチコミが映画祭を駆け抜け、そのまま世界中で高い評価を受け続けた。ろう学校における、不良少年たちの容赦の無い力の闘争を激しいリアリズムで描き、日本の観客にも衝撃を与えたのは記憶に新しい。
そして、『ザ・トライブ』のインパクトも冷めやらぬ中、監督としてヴァシャノヴィッチが発表したのが、『アトランティス』であった。
『アトランティス』について
『アトランティス』は2025年を舞台にしている。ウクライナとロシアとの戦争が終わった世界、という設定である。ヴァシャノヴィッチ監督は当時「2025年に戦争が終わっているという設定を書いた私は楽観的なのかもしれない」と発言していて、いま思うと胸をえぐられる思いがする。
戦争が終わった地において、元兵士の男が巨大な工場で働いている。男は戦争による深刻なトラウマに苦しんでいる。一方、地中に埋められた兵士たちの死体を掘り返す作業が進められており、男は身元不明の死体を調べる業務に携わる女性と知り合う。女性との出会いが、少しずつ男の心を和らげていく…。
映画は乾いたトーンに終始し、男の殺伐とした心象風景を描いていく。「乾いたトーン」とはいえ、その迫力が並み外れている点が『アトランティス』の大きな特徴である。ロシアとの戦争の激しさの爪痕がストレートに伝わってくることに加え、美的センスに圧倒される。計算し尽くされたワンシーン・ワンショットは映画ファンの度肝を抜くだろう。奇跡的にユーモラスなシーンもあるかと思えば、ジガ・ヴェルトフ的なオートメーション工場のショットは、ロシア革命期のフィルムを想起させるに違いない。ロシアとの戦争という極めて現在的な主題のみで語られる作品ではなく、あまりにも映画的な刺激に満ちた作品なのである。すべてのシーンが完璧な構図を備えており、シーンの継続時間には常に緊張が漲っている。このビジュアルのインパクトの強さは並大抵ではない。
『アトランティス』は2019年のヴェネチア映画祭「オリゾンティ部門」に出品され、当然のように作品賞を受賞した。一目で作品の力に惚れ込んだ僕は東京国際映画祭のコンペティション部門に招聘し、結果的に審査員特別賞を受賞することとなった。上映時のQ&Aについては上述した通りであり、撮影方法についての質問ができなかったのが心残りであるが、それもやむを得なかった。俳優の訴えは悲痛であり、あの時の張り詰めた劇場の雰囲気を記憶にとどめている観客もいるに違いない。僕にとっても脳裏に残るQ&Aのひとつだ。今回、このような形で繋がってくるとは想像すらしなかったけれども…。
再度『アトランティス』を日本で上映する機会が得られることに、歓びを覚える。不謹慎ではあるかもしれないけれど、まずはクオリティーの高さにとことん惚れ込むことのできる映画の存在が第一で、それがなくては今回の上映企画も成り立たないのだ。
『リフレクション』について
ヴァシャノヴィッチ監督は間髪を入れず『リフレクション』を完成させ、2021年のヴェネチアのコンペティション部門への出品を果たす。
『アトランティス』が終戦後の世界を描いていたのに対し、『リフレクション』はクリミア侵攻によって戦争が始まった2014年を舞台にしている。この2本によって、我々は対ロシア戦争のはじまりと「終わり」を目撃することになる。なんということだろうか。いま、この2本を見るということに、畏れに近いものを感じざるを得ない。
主人公は、外科医の男性。東の戦線が激化し、戦争負傷者の増加を自覚している。彼には別れた妻との間に娘がひとりいて、妻は新たなパートナーを得ており、軍人であるその男性に娘もなついている。主人公の青年は自ら従軍する決意をして、戦地に赴く。しかし敵に捕らえられてしまい、凄惨な体験をすることになる…。
前半は戦争の酷さを描き、後半はまた異なる展開が待っている。映画は戦争の痛みを描くだけでなく、青年の内面を深くえぐっていく。彼は、ある時点で嘘をつかざるを得なくなる。それはエゴなのか、それとも…。孤独と家族に関する物語であり、魂は救済されるのかを問う深淵な作品でもある。
ワンシーン・ワンカットの迫力は本作でも健在である。冒頭、大人たちが会話する空間の奥に、ガラス張りの部屋があるのが見える。その奥の部屋では、どうやらシューティングゲームが始まったらしく、子供たちが放つゲーム銃の弾がガラスにあたって色鮮やかに破裂する。この技巧に唸るとともに、その暗示する内容に恐怖を抱かざるを得ない素晴らしいオープニングだ。
描写は直截的で、容赦がない。2014年からの東部の紛争で、実際にどのような戦闘が行われていたのか。主人公が赴き、捕らえられてしまう「ドネツク共和国」がどのようなものなのか、日々の報道で勉強した我々には、いまなら理解できる。
主人公の部屋の窓にぶつかる鳩や、ジョギングをしていると追いかけてくる野良犬など、摩訶不思議で意味深なシーンの数々にも驚かされ、やがてその隠喩がじわじわと身に染みてくる感覚を抱かされる、まさに独特な映像体験だ。
そして、確実に、現在の拡大戦争の可能性に警鐘を鳴らす作品である。本作を2021年に上映できなかったことは痛恨の極みであるが、何事も遅すぎるということはない。いま、本作を見て、何を考えるか。
現在の状況下において、もっともウクライナとロシアの関係に迫った作品であることは間違いない。そして、またもや非常に高い芸術的センスに貫かれている。『リフレクション』こそは、いま見るべき作品であると断言したい。
祈り
さて、準備は間に合うだろうか。いや、是が非でも間に合わせなければならない。ヴァシャノヴィチ監督にメールは出したのだけれど、まだ返事はない。メールが見られる環境にいるのかどうかも分からないし、もちろん催促するなどとんでもないことだ。いま、監督はキエフにいるのだろうか。国外退去できたのであろうか。なんとか無事でいてほしい。
そして、ひとりでも多くの人が『アトランティス』と『リフレクション』を発見してくれますように。そしてひとりでも多くの人が、ウクライナ映画の未来を応援してくれますように。
矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)
仏・パリ生まれ。2001年より映画の配給と宣伝を手がける一方で、ドキュメンタリー映画のプロデュースや、フランス映画祭の業務に関わる。2002年から東京国際映画祭へスタッフ入りし、2004年から上映作品選定の統括を担当。2007年から19年までコンペティション部門、及び日本映画部門の選定責任者を務める。21年4月よりフリーランス。
寄稿:矢田部吉彦
編集:おのれい
「ウクライナ映画人支援上映:ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督作品上映会」
2022年3月29日(火)~3月31日(木)、ユーロスペース/ユーロライブにて開催
[主催]ウクライナ映画人支援上映 有志の会(代表 矢田部吉彦)
[協力]New Europe Film Sales、Best Friend Forever、(株)フリーストーンプロダクションズ、(有)マーメイドフィルム、(有)ユーロスペース、東京国際映画祭
(注意)
・チケット購入に際して:クラウドファンディング(Motion Gallery)のサイトにて前売り券を販売。(状況により当日券の販売も予定。)
・新型コロナウィイルス感染症対策のもとイベントを実施いたしますが、感染拡大の状況によってはイベント自体の実施や内容が変更になる場合がございます。
・チケットに関するお問い合わせ先:standwithukrainianfilmmakers@gmail.com
・上映をご覧頂かなくとも、支援のみ行う選択肢も用意しておりますので、ご検討下さいませ。