よりよい未来の話をしよう

「無関心」を「関心」へ フォトジャーナリスト 安田菜津紀さんインタビュー

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私たちが生きる社会には、さまざまな課題や困難が存在する。それは自分に直接ふりかかってくるものもあれば、自分とは関係ない場所で、でも確実に誰かを苦しめている場合もある。

2011年3月11日に起きた「東日本大震災」から10年あまりが経つ。震災が起きてすぐは、多くの人が寄付やボランティアなどで現地に駆けつけ、支え合った。しかし時が経ち、現地では街や人を取り巻く状況も変わり続ける一方で、同じ国に暮らす者として震災というできごとに向き合い続けられてきたのかというと、筆者自身も正直自信がない。

自分が直接的に痛みを感じているわけではない、でも誰かがいまも確実に痛みを感じている。そんな少し遠くに捉えてしまうような課題に、私たちはどう向き合い、関わり続けていくことができるのだろうか。

フォトジャーナリストとして、さまざまな社会の課題や困難に関わり続けている安田菜津紀さんに、お話を伺った。

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時が経ったいまだからこそ、語られる言葉がある

現在の活動について教えてください。

Dialogue for People(※1)のフォトジャーナリストとしての取材と発信がメインです。これまでは、紛争地や難民問題などに関して海外を含め現地取材をしてきましたが、残念ながらこのコロナ禍になってからはなかなか現地に行くことが叶わず、現地の取材パートナーとオンラインで情報交換をしています。
国内でも取材すべきことはたくさんあります。最近では入管施設の問題、日本に逃れてきた難民の方々やヘイトスピーチなど、国内の人権に関する問題を取材しています。

様々な活動をされている安田さんですが、先日Podcast(※2)で、東日本大震災で被災した福島県の方の取材をされているのを拝聴しました。東日本大震災の現地を継続して取材されているのですね。

岩手県の陸前高田市や福島県の大熊町を主に取材しています。陸前高田は義理の両親が暮らしていたこともあって、人間的な繋がりから取材が始まり、いまも継続して行っています。震災直後から関わっている陸前高田にいるご家族は、震災後、仮設住宅に入るも長らく抜けられず、ようやく2年前に災害公営住宅へ入りました。しかし入ったら入ったで、どのようにコミュニティを形成していくかなど、新しい課題に向き合っています。そんな風に、震災後の人の変化から街の変化を読み取る取材をしています。
大熊町では、ご自宅が帰還困難区域の中にあるお父さまが、長らく行方不明だった娘さんの捜索をずっと続けていらっしゃったということで、その方やその周辺をメインに取材をしています。

東日本大震災の現地に関わり続ける中で、感じていらっしゃることはありますか。

「関わり続けること」自体が本当に大事なことだと思います。現地では、震災直後から自分の胸の内を語ることのできる方もいれば、伝えたいことがあるけれども言語化することが難しい、という方もいらっしゃいました。震災発生当時、中学生だった子が大学生になってから言っていたことで、「震災直後はズカズカと地域に入ってくるメディア関係者が大嫌いだったし、震災の話なんてしたくないと思っていた」と。けれども、時間の経過と共に気持ちも変化し「このままでは、この場所で起きたことが忘れられてしまうのではないか」という焦りが生まれ、いまなら話せると思ったけれど、もう当時たくさんいたメディア関係者はいなくなっていた。それがもどかしかった、とおっしゃっていました。そんな風に、何年か経ってようやく話せるようになった、という人の声も受け止められるような距離感でいたいと感じています。

※1特定非営利活動法人Dialogue for people
https://d4p.world/
※2 Radio Dialogue
https://open.spotify.com/show/7IXV3WD8KyAtEMSrzQTH8S

教訓を生かさないことで、被災した方々を2度苦しめてはいけない

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関わり続けるなかで、どういったところに現地の方々の変化を感じますか。

それは人それぞれ違います。たとえば、10年という月日が経ち、すでに事業を再建している人のなかには「『被災地』『被災者』と呼ばれたくない」と言う方もいます。それはそれで大事な投げかけですが、その一方で「すでに生活を立て直しており『被災者』と呼ばれたくない」という言葉だけが、世の中に強く響いてしまう可能性もあります。10年経とうがそれ以上の月日が経とうが、いまだに生活の再建が難しく、さまざまなトラウマを言語化できない方もたくさんいます。そんななかで「被災地はもう前に進んでいる」という大きな思考で括らないこと、人の心の歩みの幅は人それぞれ違うのだという前提に立ちながら、より取りこぼされがちな声は何だろう、というところに軸足を置いて考えたいと思っています。

現地へのメディアの関わり方に変化を感じますか。

息長く発信をしているメディア関係者の方もいますが、月日が経つにつれ、各メディアの中で関係性や情報、知識が受け継がれていかないことに問題意識を感じることがあります。毎年3月直前になると、部署異動で震災の特集担当にあてがわれた方から、「繋がりがないので誰か紹介して欲しい」と頼まれるケースがありますが、最初からストーリーを作ってしまう場合があります。「家族を亡くしていて、でもいまは前向きに頑張っている人を紹介してもらえませんか?」と。でも、長く関わっていると、物事はそんなに単純じゃないと分かります。震災との距離に隔たりがあることによって、美談にしてしまったり、大きな物語に回収してしまったりという行動が目立ちます。メディア側の課題として、もう少し生活に根付いた、複雑に細分化されてしまった問題にも目を向けるべきではないか、と感じています。

震災から10年が経ち、その経験が風化してきていると感じる人もいると思います。震災の教訓として「これだけは未来に必ず伝えていくべきだ」と思うことはありますか。

「自分や自分の大切な人をどう守るか」と、自分に置き換えて備えることですね。陸前高田で被災された方が、「『頑張ってください』『大変ですね』という言葉よりも、『自宅に戻って家具を固定しました』という言葉が何より嬉しい」とおっしゃっていました。東日本大震災直後は「震災=津波」というイメージが強くなり、震災の話を別の場所ですると「うちの県は海がないから大丈夫だ」という言葉が返ってくることがありました。でも大丈夫なんてことはありません。土砂災害や火山の噴火など、どんな災害であっても共通する「備え」があります。自分たちの地域にはどういうハザードマップがあって、どういう災害に遭いやすいのか、自分に置き換えて考えることが必要です。南相馬で被災された方も、どこか違う地域で災害が起こり人が亡くなったと聞くたびに、「なんで逃げられなかったんだろう。震災に遭い、必死に発信してきたつもりなのに、自分たちの教訓がどうして生かされなかったのだろうか」と非常にもどかしい気持ちになるとおっしゃっていました。

「私たちは被災した人たちを2度苦しめてはいけない」。これは、過去に開催したスタディーツアーに参加していた高校生の言葉です。1度目は東日本大震災の被害そのもの、2度目はどこか違うところで災害が起きたときに「自分たちの教訓がなぜ生かされなかったのか」と感じさせてしまう、その苦しみです。自分たちに置き換えて具体的な行動に移していくことも、被災地で出会った方々に対して何かを返せるきっかけになるのかな、と思いますね。

「無関心」を「関心」に近づける、はじめの1歩

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自然災害の話に限らず、世の中で起きている困難に「関わり続けていくこと」で見えてくるものやその必要性について、どのように捉えていらっしゃいますか。

関わり続けることで初めて、問題の本質が見えると思います。フォトジャーナリストの活動を始めたばかりのとき、ウガンダやカンボジアでHIVウイルスの問題を取材しました。最初は病気そのものの問題と捉えていましたが、少しずつ「同じ教室に通うだけでうつるんじゃないか」という偏見や差別の問題でもあったり、支援の在り方の問題でもあったりと、さまざまなことに気付いていきました。長く関わることによって、問題の背景や根深い構図が初めて見えてきます。

国内外問わず様々な困難があるなかで、向き合い続けることはエネルギーのいることだと思います。安田さんがいくつもの課題に関わり続ける原動力について教えていただきたいです。

人間的な感覚だと思うんです。写真は現地に行かなければ撮れませんし、人に会いに行くことそのものが仕事のようなものです。関わったことのある、具体的に顔と名前が見える相手が「その後どうなっているのだろうか」ということが、1人の取材者としても、1人の人間としても気になりますし、「また会いに行きたいな」とも思います。シンプルな気持ちが1番の原動力になっていますね。

写真というメディアだからこそ、届けられることは何でしょうか。

「0」を「1」にする、1番最初の扉を開いてくれるのが写真ならではの役割じゃないかと思います。写真は本当にシンプルなメディアです。私たちが本屋さんで本を手に取るときって、その本の内容に興味があるから手を伸ばすと思うんです。でも写真は街中の看板やポスター、何気なく開いた雑誌の中など日常の中に溢れていて。もしそれが力のある写真だったら、「あれ、これってなんだろう?」と無関心を関心に1歩近づけてくれる、そういう感覚です。

人権は何かの対価ではなく、誰もが持っている

「無関心」と「関心」、その差はどうして存在してしまうのでしょうか。

理由は大きく分けて2つあると思います。1つは単純に「知らない」ということです。たとえば入管の収容施設では、人目の届かない密室で、社会的なマイノリティの人たちが閉じ込められているので、そこで起きていることは外に出て行きにくいですよね。ウィシュマ・サンダマリさんの事件(※3)が起きて、たくさんの人、とくに大学生や高校生が「これはおかしいよね」と積極的に発信してくれました。彼らに話を聞いたときに「私たちには怒りがあります。外国人であれば何をしてもいいと振る舞ってきた体制そのものに、そしてこの事実を知らずに背を向けてきた自分たちにです」という話がありました。知ったら変わるんじゃないかな、と思っています。

もう1つは「偏見が阻んでいる」ということです。難民問題で言えば、「難民問題って難しそう」「外国から来た人たちはちょっと怖い」といった風に、明確に偏見が阻んでいるパターンがあります。そういう人たちには関わりやすい間口をどう作るかが鍵になると思います。
たとえば、日本に暮らしている難民の方々を、食文化を通して伝える児童書を刊行しました。日本で手に入る限られた食材で故郷の料理を再現して、「その料理を作り食べることで、あなたはどういったことを思い出すんですか?」「では、どうしてその思い出いっぱいの地を離れなければならなくなったのですか?」と、食文化を切り口に紐解いていく内容です。そうすると、難民問題ってなんか抵抗あるな、と偏見を抱いてしまっていた人が、「あれ、この料理美味しそう。どういう人が作ったの?その人はどうしてその国から日本に逃れてきたの?」と、少しずつ階段をかけるように知っていくことができると思います。難民問題を遠くに感じている人に「いきなり全てを理解してください」と求めるのではなくて、まず知るための上りやすい階段をかけていきたい。その1つが食文化などのカルチャーという切り口になると思います。

最後に、安田さんの思うより良い未来とはどんな世界でしょうか。それに近づくために、どんなことが必要だと感じますか。

ダイバーシティや共生社会ということが、さまざまなところで掲げられてきましたが、それらの言葉は、日本の中では「みんな手を取り合って仲良く」というイメージなんですよね。それができるに越したことはないですが、人間である以上ぶつかり合いもあるし、ちょっと苦手な人に出会うことだってあると思います。大切なのは、そうした人たちであっても、ある日ものすごく不当な扱いを受けたとか、虐げられていたときに「いや、それは違うでしょう、おかしいでしょう」と言えるかどうか。それを言える社会が、「人権が守られた社会」だと思います。そんな風に自然に声をかけ合える社会が、自分が生きたい社会だと考えます。人権は何かの対価で与えられるものではなくて、誰しもにあるということがまだまだ社会の中には行き届いていないとも感じているので、その前提の共有から始めなければいけないと思っています。

※3 スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが2021年3月、名古屋市の入管施設で収容中に亡くなった事件。出入国在留管理庁は同年8月に最終報告書を公表し、死因を「病死」と結論づけたが、ウィシュマさんに対する入管職員の不適切発言や医療体制の不備などが明らかとなった。

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私たちは、少し遠くに捉えてしまうような課題にどう向き合い、関わり続けていくことができるのだろう。また、向き合い続けるためのエネルギーを、どのように持つことができるだろうか。この問いに対して、安田さんはご自身の「また会いたい」というシンプルな原動力を教えてくれた。どんなに遠く感じる課題でも、顔と名前の見える誰かとつながったとき、その問題は自分のものとしてぐっと近づいてくるだろう。

安田さんにもらったたくさんの言葉を「1歩目の階段」にして、「無関心」を「関心」に変える輪を広げる行動を、私たち自身も始めるときではないだろうか。


安田 菜津紀
1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

 

取材・文:大沼芙実子
編集:おのれい
写真:認定NPO法人Dialogue for people 提供