よりよい未来の話をしよう

できないことじゃなくて、できることに注目する。 「アートリップ」で創造するウェルビーイングな暮らし

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日本は世界一の寿命を誇る国だ。平均寿命はもちろん「自立した生活ができる期間」を指す健康寿命においても、日本は世界一という結果になった。(※1)高齢化が進むなか、それに伴う健康や医療体制の充実は長年のテーマとして語られてきた。例えば、認知症患者数は2025年には65歳以上人口の約20%まで増加する、という推測値もあるほど身近な問題となっている。(※2)そんななか、認知症の予防・進行を遅らせる方法として、アートの力に注目が集まっている。

※1 World Health Organization「WORLD HEALTH STATISTICS 2021 」
https://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/342703/9789240027053-eng.pdf

※2 厚生労働省「医療と介護を取り巻く現状と課題など」(2021年12月6日 利用)
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12404000-Hokenkyoku-Iryouka/0000167844.pdf

広がる「アート×医療」の取り組み

アート×医療。なかなか想像がつかないかもしれないが、アートの力を医療の分野に活用する「臨床美術」の起源は1996年に遡る。何かに縛られることなく、心を解放し思いをぶつけるという創造行為により脳が活性化する。それが認知症予防や進行の遅延などに効果があるのではないか、と彫刻家の金子健二氏らによって提唱された。それ以来、絵を描いたり、コラージュを制作したり、などのワークショップが医療の現場ではもちろん、介護施設などさまざまな場所で開催され、アートの持つ力を活用した取り組みが行われてきた。

臨床美術以外にも、アートの力を活用した取り組みが注目を集めている。国内で認知症患者とその家族や介護人を対象とした対話型アート鑑賞「アートリップ」もその1つだ。実際にアートはどのように認知症予防になるのだろうか。「アートリップ」の活動を行っている一般社団法人アーツアライブ代表理事の林容子さん(以下、カッコ内は林さん)にお話を伺った。

アートはアーティストだけのものではない
「アートリップ」が持つ力とは

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アートリップは、「アート」と「トリップ」からなる造語だ。“アートの中を旅する”と名付けられた対話型アート鑑賞による認知症を患う方や介護者への取り組みは、林さんが2010年にスタートした。

「私は1999年から、高齢者を対象としたアート創作に取り組んできました。認知症が広く知られるようになって以来、その数はどんどん増えました。2010年頃、数年にわたって、研究奨学金を得て、認知症を患う方の為のアートプログラムのリサーチを米国で行いました。そこで大学院の恩師のつてでニューヨーク近代美術館で出会ったのがアートリップの原型となる、認知症当事者とその家族を対象とする対話型アート鑑賞プログラム『Meet Me at MoMA』でした。」

参加者たちは1枚の絵の前に座り、じっくりと絵を鑑賞する。その後、案内役に導かれながら絵に関して気がついたことを口々に発言し、鑑賞を深めていく。その様子を見た林さんは衝撃を受けたという。

「気がついたら涙が流れていました。私が日本で行っていた創作ワークショップでの会話は『何色で塗りましょうか?』という具合に内容が限られていました。それがMeet Me at MoMAでは参加者がファシリテーターの問いかけに応えながら「歌が聞こえる」や「曇った日の絵だね」など、アートを見て思ったこと、感じたことを言語化してイキイキと楽しそうに話していることに感動しました。」

日本で初めての「アートリップ」は友人に協力してもらい敢行。参加者からの『認知症を患ってから、薬を飲む毎日で何のために生きているのか分からなくなっていたけど、今日参加してみて生きる張り合いをもらった』という言葉を受けて、活動に対する覚悟ができたという。

「アートを楽しむのに必要なのは知識や記憶力でなく、その人ならではの感情です。アートの多様な要素は認知症当事者の方の感情を揺さぶり、楽しむことを可能にします。たとえ、何の絵を見たかは忘れてしまっても、楽しかった、感動した、という感情は残り、気分がいい状態が続きます。だからアートリップをやっているとどんどん会話が弾むし、食欲も出て、夜もよく眠れたりします。」

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写真:アートリップの様子@arts alive

2021年には、文化庁による「令和3年度障害者等による文化芸術活動推進事業」(※4)にも採択され、全国の美術館への展開に弾みが着いた。同年だけで新たに7館の美術館がアートリップを採用した。また、活動開始時から、アートリップを全国に普及させる目的でアートコンダクターの養成を行ってきた。全国の認定アートコンダクターの数も50人を超えるという。以前は、国立西洋美術館などで毎月開催されていたが、現在はコロナ禍でも対面での実施を継続している施設やオンラインで当事者及び一般の方にも向けてアートリップを実施している。

「2021年2月末、仙台の富沢病院の会議室をギャラリーに見立ててアートリップを開催しました。病院にとっても初めての取り組みで、先生からは『集中力がきっと切れてしまうので、20分のプログラムにしてほしい』と言われていました。しかし始まってみたら、参加者のみなさんの集中力が途切れることなく、あっという間に1時間が経ちました。認知症を患うと、できないことにフォーカスされがちです。集中力が持たない、記憶できない、座っていられない、言葉が浮かばない、とか。一方でアートリップは、“できること”にフォーカスします。その“できること”は何かというと、情動という機能を用いることなんです。」

情動とは、喜び、悲しみ、怒り、恐れなどによって引き起こされる感情の動きを指す。典型的なアルツハイマー病で認知症を患う人に最後まで残る機能が情動機能、つまり感情だという。入院生活など、制限ばかりの日常に、アートを旅するという刺激があることで、その感情機能が揺さぶられるのだ。そしてその時に抱く感情は喜びや楽しみなど歓喜情動が多いという。

先に紹介した仙台富沢病院では、認知症の周辺症状の緩和ケアとして「歓喜的情動療法」を導入している。脳は認知機能と情動機能の2つに分かれており、そのうち認知機能が低下するのがいわゆる認知症である。しかし、もう一方の情動機能の低下を防ぐことで、認知症による異常行動を軽減させ、日々の生活を送ることができるという。(※5)その中でも「歓喜的情動療法」は楽しい、嬉しいといった歓喜情動を引き起こすことによって、ネガティブな情動を原因とするうつや不安症状・行動異常の軽減をはかる療法であり、アートリップもその一環として検証がなされた。結果は、アートリップによって引き起こされた歓喜情動が、これまでの他のどの取り組みよりも良い数値を記録した。

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写真:アートリップの様子@arts alive

とはいえ、「アートリップ」の国内での普及には課題が山積みだ。日本の美術館は、静かに鑑賞しなければならない、鉛筆以外の持ち込みは禁止など、厳しい決まりが多いのだ。椅子を持ち込み絵の前でじっと座り鑑賞をすること自体が難しい。また、当事者の方が物理的に美術館を訪れるには家族の協力も必要で簡単ではない。

何よりも、アートリップ自体が広く社会に知られていないことが大きな課題となっている。アートリップがもたらす効果はこれまでにも証明されてきた。2013年、軽度認知症でうつの症状が見られる人を対象に、国立長寿医療センターとの協力で行われた検証では、3ヶ月間のアートリップの実施により、うつやイライラの軽減、単語記憶力の改善兆候や気分の向上の効果がある、という結果が得られた。(※6)

「医療、介護関係者に受け入れていただくために、アーツアライブでは、アートリップが高齢化や認知症にもたらすうつの軽減やQOLの向上効果その他について検証、研究を続けてきました。現在も論文を執筆中で2022年には発表予定です。2022年は、アートリップを始めて10周年になります。2022年早々、文化庁委託で新に6館でアートリップを実施します。社会もSDGsや共生社会を意識するなど変化してきて、日本全国への普及に向けて確かな手ごたえを感じます。」

※4 文化庁HP「令和3年度障害者等による文化芸術活動推進事業(文化芸術 による共生社会の推進を含む)採択結果一覧」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/shogaisha_bunkageijutsu/kyosei/pdf/r3_shogaigeijutsu.pdf

※5 一般社団法人日本認知症情動療法協会HP「認知症情動療法とは」
http://emg.or.jp/etda/activities/about-therapy/

※6 一般社団法人アーツアライブHP「アートリップとは」http://www.artsalivejp.org/program

「5WINS」で実現する、ウェルビーイングな未来とは

林さんは、アートリップを「5WINS」な取り組みだという。①認知症当事者 ②同伴者であるその家族や介護士 ③アートコンダクター ④美術館あるいは施設関係者 ⑤関係スタッフの全員がハッピーになれるというのだ。確かに、アートリップは、一方的なレクチャーではなく、正解がないアートを介した「対話」の場である。そこにいる全員で作り出す空間には、想像力に制限もなければ、言ってはいけないこともない。認知症患者だからできないこと、ではなくて「できること」に目を向けた時、彼人らは未来を無限に描きはじめるのだ。

筆者の祖父は、生前認知症を患っていた。もし、彼とアートリップができたのなら、どんな世界を旅し、どんなものを見たと教えてくれただろうか。叶わないと分かっていつつも、想像せずにはいられない。まだまだ可能性を秘めたアートリップという取り組み。高齢化社会の台頭が目前に迫る中、アートが持つ力に注目していきたい。

 

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林容子
一般社団法人アーツアライブ(http://www.artsalivejp.org)代表理事。
国際基督教大学、デューク大学で美術史を学び、コロンビア大学にて アーツアドミニストレーション学修士取得。ニューヨークのアートコンサルティング会社やMoMAのアートアドバイザリーサービス部で企業コレクションの収集、制作企画及び企画展実施に関わる。1999年より美大生や若いアーティストとともに病院や老人介護施設でのアートプロジェクト(ArtsAlive)を企画、実施。2020年、『アートリップ入門 認知症のうつ・イライラを改善する対話型アート鑑賞プログラム』(誠文堂新光社)出版。

〈アートリップ開催スケジュール〉
https://coubic.com/artsalive#pageContent
1月:小樽芸術村、三重県立美術館 /2月:横須賀美術館、米子市美術館、高松市美術館、熊本市現代美術館CAMKにて認知症当事者対象アートリップや関連レクチャーを文化庁委託で実施予定。その他にも、オンラインアートリップなど実施中。

 

取材・文:おのれい
編集:柴崎真直